「人の賢さは、その人が何を望むかで計ることができる」という言葉があるが、こんなものは本質を知る者が言うようなことではない。

この言葉だけを見ればどうとでも言い返すことができる。

人が何を望むのかなんて人それぞれなのだから、他人がとやかく言うことではない。

例えば、「この店はチョコレートケーキが有名で絶対それがおススメだと俺は言ったのに、こいつは俺の忠告を無視してチーズケーキの方を注文しやがった。バカな野郎だ。」といったやり取りがあったとすると、そんなの何を望もうが人の勝手だろとしか思えない。

このようなくだらない話にもできてしまうが、もっと大事な話だとしても、やはりそれはその人がどのように生きてきたのかや、どういうことで満足するのかといったことが判断に強く影響するのだから、人に迷惑を掛けるわけでないならどうでもいいことのはず。

大抵はこのような話というのは、それなりに大きい収入を得ていたのにすぐに今欲しい物のために使ってしまい、全然カネが溜まらない人と、ずっと貯金してきてマイホーム購入資金に充てる人を比べた場合、大抵の人は後者が賢いと言うのだろうが、それも人の勝手だろう。(後でカネに困って人を頼るようなことがなければだが)

この言葉だけを見ればいくらでも安っぽい話できてしまう。


この言葉の真意は恐らく個人の損得勘定を美化するもので、つまらないことに拘ったり意地を張ったりして儲け話をふいにするだとか出世コースから外れて左遷してしまうだとかいったことを特にイメージしているのかもしれない。

しかし、儲け話の類は詐欺であり、己の願望こそが賢さを計る基準であるとするのは、やはりくだらないし滑稽な感じがする。

余程恵まれた環境で生きてきた者でもない限り、普通はそんなことを言わないだろう。

一般的には、願望だけ持っていても餌やルアーに釣られる魚のような間抜けになってしまう。

本当に願望を叶えるには運や実力が必要なはず。

出世コースから外れるというのも、本人にとってみればそこから外れることによって過剰なストレスから解放されてせいせいしているのかもしれず、無理してぶら下がっていることで自殺したり病気になったりするよりはいいはず。

また、価値観が利己的なのか利他的なのかといったことを踏まえれば単純には言えないことでもある。

自己犠牲の精神も確かに行き過ぎれば問題だが、自分の利益だけ追求する姿勢もあまり褒められたものではない。

他者や全体の利益のために行動することは、ひいては自分の生活の安定や安全にも繋がる。


エマーソンの言葉は個人主義でもあるし、なんとなく利己主義でもあるような印象を受けるが、それはあまり酷い思いをしてきた経験がなかったことも影響しているように思える。

人物としてはいわゆる「いい人」であり、苦労してきた人ではないのだろう。

この人は「人を信頼しなさい。そうすれば人はあなたに正直になるだろう。」とも言っているが、現実はそれほど甘くはなく、ただ人を信頼すれば騙されたり裏切られたり一方的に利用されたりするはず。

「不正に対する感覚が鈍ること、それは、知性が浅はかな証拠である」という言葉も残しているが、確かにバカな奴がペテン師に騙されるということはよくあるが、一般的に見て知性が高いとされる人であっても簡単に騙されることもあるのだから、実際は嫌な思いをしてきた人だからこそ警戒心も強まり、不正に対する感覚も鋭くなるのではないか。


では、人の賢さというのは何で決まるのかというと、それは手を広げすぎるのかどうかなのだろう。

あまりにも多くのことに首を突っ込んだり、余計なことにまでちょっかいを出したり、誰とでも付き合うことで人との関わりが広すぎるといったことをしていると、自分でコントロールしきれなくなり、破滅することがよくある。

多くを持つ者は仕舞いにはそれを抱えきれなくなり、自分で把握することすらできなくなる。

それは経営の多角化による失敗、あまりにも幅広い人間関係によって良からぬ者とも付き合いを持つようになること、勉強する分野が多すぎるために何一つ満足な能力がない、といったことでよく見られる。

そしてこのようなことは国の進むべき道においても同様のことが言える。