コンニチワ~♪

雨だったり晴れだったり…

 天候はすっかり師走気分。


焼き牡蠣がおいしい季節だよ~ヽ(゚◇゚ )ノ


海の幸、山の幸に毎日出会える喜びを実感です。


自然の恵み、自然の営が人を育むのです。自然に感謝です。

今日もグワンバルあなたへ、願いを込めて、自然からの応援ですよ~


グワンバレー っと、ネ!


ミッキーの気になるニュース  今年もお邪魔しま~す!


17年連続で越冬「万羽鶴」 鹿児島県の出水平野
 国内最大のツルの越冬地、鹿児島県の出水平野で11月9日、
地元出水市の中学生らが1万468羽を確認した。


17年連続でシベリア方面から飛来したツルが1万羽を超える
「万羽鶴」となった。今年もお邪魔しますよ♪


で、今日は黒田官兵衛の記事をお届けです。


-----------------------------------------------------------------

毎日新聞より 2013年12月03日



黒田官兵衛:荒木村重への書簡の写し発見

本能寺の翌年

兵庫県伊丹市立博物館は2日、戦国武将、荒木村重(道薫)に
幽閉された黒田官兵衛が、後に村重に送った書簡の写しが
見つかったと発表しました。


織田信長に謀反を起こした村重の説得に訪れた官兵衛は
1年間幽閉されました。


それから4年後の手紙だが、文面からは親しげな関係が
うかがえ、研究者は「幽閉は過酷なものではなく
2人は変わらずに親しい関係だったのでは」と分析しています。


同館によると、今年10月、伊丹市の郷土史家が1936年
発行の「茶道全集」に書簡の内容が掲載されているのに気付き
同館が京都市上京区の相国寺光源院で書簡を確認しました。


村重は伊丹にあった有岡城の元城主で、官兵衛とともに
織田信長に仕えました。


1578(天正6)年、村重は信長に謀反を起こし
説得に訪れた旧知の官兵衛を有岡城に幽閉。

1年後に城を捨てて逃れ、官兵衛は解放されました。

書簡は本能寺の変で信長が討たれた翌年の1583(同11)年
に書かれたものです。


当時、官兵衛は秀吉の配下で、茶人となっていた村重は
茶道を通じて秀吉との関係を深めていました。


書簡は、村重から光源院の領地問題の相談を受けた
官兵衛が返書を出し、これを村重が書き写し、交渉が順調だと
伝えるために光源院に送ったものとみられます。


「秀吉様のお考えどおりに間違いのあるわけがありません」と
秀吉をたたえる言葉や「姫路へのお供をされるのであれば
この地へお出(い)でになるだろうと存じていたところ
お出でになられず、とても残念」と再会できなかったことを
惜しむ文がつづられていた。


神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)は
「文面からは遺恨は感じられない。茶人となった村重が政治に関与し
秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする2人の関係を示す
貴重な資料だ」と評価しています。


書簡の画像↓


http://mainichi.jp/graph/2013/12/03/20131203k0000m040151000c/001.html





-----------------------------------------------------------------



次回も見逃せないニュースお届けします。


こちらの内容にも注目だ~!

とっても為になるよ(笑) ホントだよ♪


『想いは、色で伝えることができる!』


『チョイ悪mickeyの気になる色彩術』
 


ミッキーの気になるニュース
 イェ~イ♪チョイ悪mickeyだよ~

   i i i

  ビョ~ン