朝のうちに雨は上がったものの、空気全体が湿気をたっぷり吸い込んでいて、部屋の窓を開けても重たい風が入ってくるだけだった。靴箱の扉を少し開けて換気扇を回している。昨日履いて出かけたスニーカーが、玄関のたたきでまだしっとりと重い。新聞紙を丸めて中に突っ込んであるのだが、紙の方もすでに湿気を吸ってくたびれていた。
朝食のあとにスマートフォンを眺めていると、神奈川や千葉で土砂崩れが相次ぎ、亡くなった方や行方不明の方が出ているという記事が目に入った。鉄道も一部で運休が続いているらしい。神奈川のどのあたりだろうと地図を思い浮かべる。あのあたりは丘陵地が多く、切り通しのような道路や、斜面にへばりつくようにして住宅が並んでいる場所がいくらでもある。
普段、道を歩いているときに足元の地面が崩れるかもしれないなどとは、ほとんど考えない。アスファルトは固く、階段は水平で、コンクリートの壁はまっすぐに立っている。そういう人工的な確かさを疑わずに暮らしているわけだが、あれだけの雨が降り続けば、固いはずの土がただの重い泥に変わってしまう。
近所にも、少し歩くと急な坂道がある。片側が高い擁壁になっていて、等間隔に塩ビの水抜きパイプが突き出ている。普段は何気なく通り過ぎる場所なのに、大雨の翌日などにそこを通ると、パイプの先から濁った水が細くチョロチョロと吐き出されているのを見かけることがある。土の奥底にどれだけの水が溜まっているのか、壁の向こう側は見えない。その見えない重みを想像すると、なんとなく足早になる。
以前は雨が降っても「服が濡れて面倒だ」とか「電車が遅れて困る」くらいのことしか思っていなかった。土砂崩れのニュースを見ても、どこか遠い山あいの出来事のように感じていた気がする。ところが最近はどうも雨の「重さ」のようなものが気にかかるようになった。バケツ一杯の水だってあれほど重いのだから、山や崖一面にしみ込んだ水の重力たるや、途方もないはずだ。人工の壁一枚でそれを支え切れると思うほうが、都合のいい錯覚なのかもしれない。
数年前に家周りのハザードマップを自治体のウェブサイトで確認したことがある。色分けされた図面を見ると、自分が住んでいる場所のすぐ近くまで、土砂災害の警戒区域を示す黄色や赤の網掛けが伸びていた。安全な平地だと思っていても、買い出しに行くスーパーまでの道や、駅へ向かう抜け道がその網掛けを横切っている。完全に危険を避けて暮らすなんて、日本のどこにいても無理な話なのだろう。
電車が止まっている区間では、駅の改札前で立ち往生している人たちも多いはずだ。迂回するバスを探したり、誰かに連絡を入れたりして、朝から神経をすり減らしている姿が浮かぶ。日常の動脈が一本切れるだけで、生活の段取りは簡単に狂ってしまう。
外を見ると、雲の切れ間から少しだけ薄日が差してきた。濡れていたアスファルトの表面が白っぽく乾き始めているけれど、地面の奥に吸い込まれた水は、そう簡単には消えてくれない。
玄関に戻り、スニーカーの中に手を突っ込んでみる。丸めた新聞紙はもうすっかり湿っていたので、引き抜いてゴミ箱に捨て、新しい新聞紙をもう一度ぎゅうぎゅうに詰め直した。履き慣れた古い方の靴で出かけることにしようと思う。