おはようございます( ̄^ ̄)

緊急事態宣言という言葉をたくさん耳にしますが、今、わたしが緊急事態です。(朝起きたら誰もおらんかった。。。みんな仕事やら学校にいった。。。おーーーー。。。俺だけ取り残された感。。。





昨日書いた、"動かない"という内容の記事👇




これを自分なりに掘り下げて考えてみました。なんでわたしはこんなにお誘いを受けることが嬉しいんだろう。


なぜそのような現象が起きるかというと、これは多分、中学生の時の環境からくるある種のトラウマだと思うんですが。


中学1年〜2年、わたしは学年中から無視・敵視・攻撃のどれかをされるような人だったんですね。"友達がいなかった"んです。


周りがいつも誰かと連んでいたり、連れションしたり、休日に遊んだりするのが羨ましくて仕方なかったんですね。


誰からも誘われない自分が情けなくて惨めで、学校が針のむしろでした。


たった2年間の出来事でしたが、その後、40歳になってもそれによって苛まれることが時々あります。今は苦しくないですが、当時の苦しみが騒ぎ出すのを感じています。


友達から誘われるという事に強烈な憧れを抱いたわたしは、【友達】に、【誘われる】という事を自らの誉れ・名誉と思ってしまうクセがあります。


こんな気持ち、もしかしたら独特すぎてなかなか伝わらないかもしれませんがトラウマにより、ある特別な関係性への依存・ある特別なものへの湾曲した執着。とかは誰しもにある気がしますけども。。。


わたしはトラウマや依存、執着を悪いもの、排除すべきもの、とは捉えていません。


それらは実際に存在し時を遡ればそれらは自分の一部である事、そしてそれらに左右されるのではなくそれらをクリーンエネルギー(生きる力)に変えて歩くこともできるという風に捉えています。


わたしはよく、嫉妬について考えたり人と話したりするのですが、嫉妬。。。という言葉はネガティヴなイメージをもつ属性のものだと思います。


ただ、嫉妬と向き合った時にそこにいるのは一歩踏み出したくても踏み出せない臆病な自分でした。


素直さ・喜び・感謝・安心など、前向きでセロトニン多めの感情と表裏一体で、嫉妬・依存・執着・怒りなどアドレナリン多めの方もしっかり自分の中に在るということ。


在るということだけ感じるだけでいいな。って思いました。無理にね、失くす必要もない。


そうするとだんだん、セロトニン系とアドレナリン系のバランスがとれてきてそれは持続可能なクリーンエネルギーとして今日も一日、わたしを活動に向かわせてくれています。"持続可能なまりこ"で在ることのクリーンエネルギーです。




トラウマ在るけど、世界の美しさも知ってる。昨日はなんだか落ち込んでしまったけど、カーテンをあけたらカラスがゴミを突いている。


うんっ!生きてるねっ!


今日はそんな始まりの朝です。٩( 'ω' )و