☆74年☆デヴィッド・キャシディ①☆来日公演協力要請☆osmonds | オズモンズ・osmonds・ファンクラブ・活動日記 1969~

オズモンズ・osmonds・ファンクラブ・活動日記 1969~

1971年「♪ワン・バッド・アップル」の大ヒットから半世紀、
今も世界の舞台で大活躍の〝The Osmonds オズモンズ〟
彼らのファンクラブ設立当時の活動史。
そして、ナベさんの「その後」と「今」(^^;)です。
(画像=1969年12月第1回大阪ファンクラブの集い)

 

■ファンクラブ活動日記~48年前にタイプスリップ!


☆主催者キョードー大阪の担当者がいった一言。

 

●2017年11月、デヴィッド・キャシディの悲報・・・・・ご冥福をお祈り致します。

はじめに、私は、デヴィッドとは会っていませんので、ブログには出てきません。また、デヴィッドのことを悪く思ってはいませんし、ファンではありませんが、TVの「パートリッジ・ファミリー」は毎週見ていました。ただ、デヴィッドの名を聞くと、私のファンクラブ活動史の中では嫌な思い出がが蘇ります。まぁ、いまとなっては笑い話ですが(^^;)

 

●1974年3月 三代目ヘルパー結成。

オズモンズ4回目の来日1971年3月フィーバーの後は、半年に1回の割で来日ニュースが流れては消えの繰り返しで、その都度メンバーはガッカリしてましたが、“オズモンズが留守の時こそファンクラブ活動活発に!!”をスローガンに掲げ、大阪は活発に活動してました。

 

ヘルパーも三代目になり、6人から2人に縮小。その2人の下に大阪、神戸、京都、奈良に2人ずつサブ・ヘルパーを設けました。これは、“学校のピラミッド型連絡網”からヒントを得たもので、(携帯電話のない時代)メンバーに漏れなく連絡が伝わるようにするためです(これが1975年オズモンズ来日チケット販売時に役に立ちました)。

 

ヘルパーの2人は後に僕のあと近畿リーダーになる、Yukko(ユッコ)Memell(メメル)です。

Yukkoのことは先日、「パルコフィルムコンサート」の時に書きました。「写真ちょうだいや~」と大阪弁で話かけてきた高校生です。メリル推しのMemellAoiとして何度か書いてきました。二人とも明るい性格で友達に慕われていましたね。この明るい性格、友達が多いことが、後日すごく役に立ちました。

 

サブ・ヘルパーは、大阪=Mizue田村Keiko中浜  神戸=Tizuru東Megumi和田  京都=Etuko山本Junko芝原  奈良=Youko谷口Midori谷井。(※頻繁に出て来ないので姓も書いておきます)

 

●キョードー大阪の佐野さんからリスト要望。

〇1974年3月11日夜

キョードー大阪のデヴィッド担当の佐野さんという方から、「オズモンズ・ファンクラブのナベさんですか?お会いしたいのですが・・」と。お電話をいただき翌日、大阪梅田の本社へ出向くことに。

(※キョードー大阪。当時創業5年ぐらいのイベント企画運営会社で、同じような会社は他にもたくさんありました。)

 

〇3月12日

午前10時。キョード大阪へ出向き佐野さん会う。

30代の青年で「は~い」と返事しながら机の前で忙しそうに何かやってる・・・・なかなか来ない。こっちは立ったまま・・・。直感的に、この人とは合わないな・・・と思った。

ソファに座り、挨拶もそこそこに、なんとなく上から目線で、

「協力してくれません? デヴィッド・キャシディのショーにオズモンズのファンを動員したいんです。デヴィッド・キャシディ知ってますよね?」

「(知らん、とはいわなかった)知ってますよ。テレビ番組のために結成されたアイドルでしょ(イヤミ~)」

「メンバーリストを持っておられると聞いたので、貸してほしいんです」

オズモンズのファンと、デヴィッドのファンはまったく違うと思いますよ~~」

「いや同じアイドルだし、年齢層もぴったり同じなんです」

「(オズモンズはアイドルちゃうわい!('ω')とはいわなかった)・・・違うと思うんですが・・・」

「まぁ、その辺のことは、こちらで考えますから~」

「メンバーには、割引とかメリットが何かあるんですか?」

「それも、考えときます・・」

「じゃあ、リストのこと、こちらも検討させていただきます・・」と別れた。

※これ当時の日記からゆえ、会話もそのまま('ω')ノ

 

僕はこの時22歳。ホテルでボーイさんにいつ追い出されるか・・ビクついていたナベ君は、もういない。僕は立派なナベさんになっていた。わかるかなぁ~?? 意味不明・・・(^_^;)

 

●事務所のMichikoさん、乙女座と来阪。

〇3月13日

東京から青山音楽事務所Miichiko井上さん来阪され、しばらく大阪グランドホテルに滞在される。

青山音楽事務所からデビューする女性デュオ“乙女座”のプロモートと、3月26日に予定している「第7回大阪ファンクラブ・ミーティング」と、3月30日ミナミの心斎橋 三木楽器店での「オズモンズ・フェア」の応援打ち合わせのため。

 

僕は、Michikoさんとはお電話でお話したことはあったが面識はまだなく、ヘルパーのYukko(ユッコ)とホテルへご挨拶に。お会いした途端、僕もYukkoも、美人で明るく、楽しく話しかけてくださるMichikoさん一目惚れ(*^-^*)。青山音楽事務所の女性は、副社長のTakiさん通訳や司会でテレビに出演されておられて、いつも輝いておられたので、以前お会いしたMayumiさんはじめ、みんなオシャレで美人でしたね(#^.^#) 乙女座のお二人もこれまたすごく明るく、カワイイ女子大生のような雰囲気で、即ファンに(*^-^*)。大阪の芸能プロ「オリジナルプロデュース」のプロデューサー家村さんも同席。こちらは乙女座のプロモートのことで。

 

71年オズモンズ4度目の来日、72年心斎橋パルコフィルムコンサート、それ以降は、来日の噂が何度も消え、ファンクラブ活動がどんどん下火になっていた時期でしたが、この74年にMichikoさんとお会いでき、再び活動が活発になり、その勢いで、75年オズモンズ度目の来日を迎えることになります。

 

●チケットの買取販売はお断りする。

大阪に来られたMichikoさんキョードーにメンバーリスト貸出してよいのかどうか尋ねると、「協力できることは、してあげれば? メンバーに案内ハガキ届いても問題ないでしょ。キョード―さんならまたお世話になることもあるでしょ」とのことで、佐野さんにリストを貸すことにした。

 

再びキョード大阪に出向き、佐野さん会うと、「良い席を確保するからチケットを何枚かさばいてほしい」と。これはさすがにお断りした。

 

ヘルパーやメンバーと話していても話題にも上がらない、すでにピークの過ぎたアイドル デヴィッドのチケットをさばけるわけが無いし、ファンクラブ・リストのメンバー全員にキョードー大阪が案内ハガキを出すのだから、重複してチケットを確保するのは危険だと思った(このことを、ネに持ったのか知らないけど、翌1975年オズモンズ来日公演のチケット確保の時、また佐野さん担当で交渉難航する('ω')ノ)。

 

佐野さんは、「なら、ナベさんや幹部も、メンバーに声かけてチケット買ってくれるよう応援して」というので、それは引き受けた。引き受けた以上、一生懸命努力した。僕以上にヘルパーやサブ。ヘルパー達はメンバー以外の学友にまでデビッドのショーを観るように勧めた。

 

でも感触は良くなかった・・・。デビッド・キャシディ・・すでにピークは過ぎていた。

 


つづく~~。

 

★1974年デヴィッド・キャシディ・ショーのチラシ。当時はデビッドでした。左下がブロマイド。右下の赤い葉書がオズモンズ・ファンクラブ・メンバーに送付された案内状。

 

★キョードー大阪のプレス。デビッドの経歴が事細かに書かれてましたが、絶頂期は来日の4年も前ですからね~。

 

★このブログをアップするのに、ネットで「乙女座」を検索したら、この画像がヒット。45年ぶりにお会いし目頭熱くなりました(T_T)。覚えていますこのお顔。もちろん、写真はデビュー当時のものだと思います。今でも活躍されていらっしゃって、うれしい限りです。※画像掲載不都合であれば削除します。

 

★お二人のプロフィールも記載されていたのでそのまま転載しておきます。

お二人とも大活躍!!うれしいですね。

 

■否ふるや(古家杏子)さん

シンガーソングライター&ピアニスト、国立音楽高校ピアノ科卒業後、ヤマハポップコンでめぐり会った、女優水沢有美と、女性デュオ『乙女座』でデビュー。また伝説のフォーク歌手、友川かずきのピアノとしても約10年活動。その後、古家杏子としてソロアルバム『冷たい水』をコロムビアレコードから発売、NHK朝の連続テレビ小説『ハイカラさん』の主題歌『ふたりなら』を発表。現在、ソロ活動の他、頭脳警察ベーシストJIGENとの『歌民』等、幅広い音楽性を探求、活躍中。

 

■水沢有美さん
6歳の時に初舞台。東宝ニュータレント第5期生、同期に前田美波里、豊浦美子らがいた。歌手志望だったが、1966年にテレビドラマ『青春とはなんだ』の高校生役として本格的に女優デビュー。以降、日本テレビ系列で放送された『青春ド真中!』までの青春シリーズには、常連として出演し続けた。とくに1975年の『俺たちの旅』では、主演のカースケ(中村雅俊)、オメダ(田中健)、グズ六(秋野太作)らが住むアパートたちばな荘の大家・坂田大伍郎(名古屋章)の娘でいろは食堂の看板娘・奈美役で人気を博した。

また、1966年10月、西郷輝彦とのデュエット曲「兄妹の星」で念願の歌手デビューをはたす。同曲はレコード70万枚の売り上げを記録するヒット曲となる。1973年には、ヤマハ主催の第5回ポピュラーソングコンテスト東京大会で知り合った古家杏子(ふるや杏)とのユニット「乙女座」を組みパーカションとピアノによるデュエットグループとして活動。1975年に事務所の閉鎖で活動休止するが、2005年12月の水沢有美デビュー40周年記念ライブを機に再結成し、現在も不定期だが乙女座としてのライブ活動をおこなっている。2013年9月には乙女座結成40周年記念ライブを行った。アメリカ滞在(1988年頃から約10年)もあり空白期間はあったが、帰国後も女優、声優、歌手として、またNHKテレビの英語講座の出演者やカルチャー・スクールでの英語の講師など幅広い活動をおこなっている。

日舞坂東流名取。日本泳法有段者。石寒太主宰の俳誌「炎環」同人。俳号は水沢水音(みおん)であり、2013年10月の巻頭句に選ばれている。2016年11月に東久邇宮文化褒賞を受賞。