オズモンズ・osmonds・ファンクラブ・活動日記 1969~

オズモンズ・osmonds・ファンクラブ・活動日記 1969~

1971年「♪ワン・バッド・アップル」の大ヒットから半世紀、
今も世界の舞台で大活躍の〝The Osmonds オズモンズ〟
彼らのファンクラブ設立当時の活動史。
そして、ナベさんの「その後」と「今」(^^;)です。
(画像=1969年12月第1回大阪ファンクラブの集い)

■お願い



皆さんにお伝えしておきます。



オズモンズは1975年を最後にジミー・オズモンド単独来日以外グループとして一度も来日はしておりませんし、招聘元の青山音楽事務所がプロモート契約終了を機に「オズモンド・ブラザーズ・ファンクラブ」も解散しております。



個人が勝手にファンクラブを名乗り、ロゴマークなどを使用し、あたかも現在も活動しているような記事をネット上に投稿しているようですが、まったくファンクラブとは無関係ですし、オズモンズとも関係ありません。もちろん、私とも一切関係ありません。



現在、オズモンズ・ファンの日本での正式な親睦会はフェイスブックの「オズマニア」だけです。こちらはオズモンド・ファミリーと今でもご家族ぐるみで親交のある元日本のファンクラブ・メンバー(女性で末日聖徒イエス・キリスト教会の教徒)が主催しており、私も仲間に加えてもらっております。


一度、フェイスブックからご連絡してみてください。オズモンズ・ファンは大歓迎です。






■ナベさん、今日の出来事(^O^)/

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。


1、今年こそ、「活動史」完成させます!

とうとう・・ブログ「オズモンズ・ファン・クラブ活動日記」、昨年末で完了しませんでした。〝3日・3カ月・3年で飽きる〟悪癖はなかなか治らないものですね・・・(^▽^;)

あと活動日記も1974年3月~75年3月の1年足らずなのに・・・。

今年は完成させて、もう一度、最初からから悪文を加筆修正したいと思います。

 

期待してね!!

2、貴重な8ミリフィルム動画を掲載します!

そして、最後に私たちが撮影した8ミリフィルムの動画をアップしたいと思います。
我らのオズモンズも当然写っていますし、共に活動した2代目近畿地区リーダーAoiちゃんOnoちゃん2代目東京企画委員の皆さん、それになんと!私も映ってるのでご期待ください!(しないよね・・・(^_^; )

ただ・・モノクロ、無声で、さらにはフィルムのまま保管していたので、相当劣化しています。DVD化しておけばよかった・・・(T_T)

3、能登大地震から、阪神大震災を思い出しました・・・。

さて、新年早々、能登半島大地震、航空機衝突の暗いニュースが飛び込んできました。

元旦、初詣で「家内安全・家族健康」を祈願し、その数時間後に大地震って・・・諸行無常・・・神も仏もあったものじゃない・・。天災はお構いなしですね。

お亡くなりになられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された皆さまに心からお見舞い申し上げます。

思えば、阪神大震災も〝小正月〟明けの17日早朝でしたね。
私の自宅は神戸市の隣町。幸い自宅は大丈夫でしたが、すぐに遠方三カ所から黒煙が上がりました。
当日は、大阪の実家に住む母と弟の安否確認で30分後の朝7時には車を走らせ、信号が全て消えていて40分で着。無事を確認した帰りは大渋滞で自宅まで延々6時間かかりました(+_+)。歩いて2時間の距離ですが、車を道路に放置することができなかったのです。

不思議な思いをしたのは、翌日は電車も動き、自宅から30分大阪一の繁華街・梅田は何事もなかったかのようにすべてが平常通り・・・阪神・阪急百貨店も開店していました。


会社に行くと、連絡がとれない社員がいて、翌日からは梅田で水や保存食を買いこみ、私の自宅が最前線基地になり自転車2台で同僚と、社員の安否確認のため、神戸市内に入りました。体育館などは被災者で溢れ、地階の選手控室は遺体安置所になっていました・・・。

その惨状はまた、またいつか記載したいと思います。

4、羽田空港航空機衝突から御巣鷹山墜落を思い出しました・・・。

羽田空港の航空機衝突も、私は御巣鷹山日航ジャンボ機墜落を思い出しました。


私は、当時、日本航空・全日空・東亜国内航空の協賛で「空の旅の情報誌」や「空港ガイドブック」を編集していました。いわば、航空三社はお得意様。

あの日、家内が子供を連れて実家に夏休み帰省。私は自宅近くの中華料理屋で夕食を一人食べていたらテレビが急に緊急放送に代わり「ジャンボ機消息不明」のテロップ。
すぐに電話で上司に「どうします?空港にいきますか?」と指示を仰ぐと、しばらくして「社長が今は静観待機せよとのことだから」と。

私の会社は大阪空港にも事務所があり、日頃から空港職員や日本航空広報宣伝部の担当者とは顔馴染みゆえ、取材撮影ではなく、何かお手伝いでもと思ったのですが・・・。その夜、お世話になっている広報宣伝部の担当者が旅客被害者家族に怒号・罵声を浴びている姿がテレビに映し出され、居たたまれない気持ちになりましたね。

幸い私の親族・友人・知人は搭乗していなかったのですが、東京→大阪便でしたので、松下電器、神戸ワールド、ハウス食品、電通など関西を代表する大手取引先の社員がお亡くなりになられました。

この時、世間はお盆休みなのに、働いている大手の企業戦士が話題になりましたね。

今回、日本航空の機長とCA(キャビンアテンダント=客室乗務員)は素晴らしい仕事ぶりだったと思います。表彰ものです。

私は、編集者時代、何度かCAの訓練(脱出シュータ、プールで不時着訓練も含めて)を取材撮影させていただきましたが、男も顔負け、凄い訓練でした。それが見事に生かされましたね。あの大火災で「379人全員生還!」。正に奇跡!として世界中から賛辞されていますが、奇跡ではなく、CAと機長の日頃の訓練の賜物だと思います。


5、新年、恒例 三ヵ所 神頼みしてきました。

◯1月1日(月)快晴

兵庫県西宮市の「門戸厄神」に家内と初詣。
〝家族・身内の健康と日々の幸せ〟に感謝と祈願。
世界平和など大きな願いはとても、とても( ◠‿◠ )

◯1月6日(火)くもり

京都四條河原町の「八坂神社」。
ここは私の守護神。20歳の頃から毎年正月に参拝。数年前から月に2回は来てます。お守りもおみくじもここだけお正月に一回。ちなみに今年は「」(大吉の次)でした(^O^)

◯1月10日(水)快晴

兵庫県西宮の「西宮神社」。
西宮の恵比須様、通称〝えべっさん〟で知られる商売の神様。もちろん、私の自営業及び息子の店が繁盛しますよう祈願。


そうそう、それに今年は、神戸に行ったついでに・・・

◯1月12日(金)快晴

神戸市中央区の「湊川神社」へ。
ここは南北朝時代の名将であり天皇の忠臣・楠正成をお祀り。武運長久から転じて、〝争いのない平和な日々〟を祈願しました。


これだけ参拝すれば、今年一年、きっといいことがあるでしょう・・・(*^^*)
 

皆さん、今年もよろしくお願い致します。

 

 

 

★1月1日 門戸厄神へ初詣。

 

★門戸厄神の名物・厄除け饅頭。カフェでコーヒーと(+_+)

 

★1月6日 京都八坂神社。20歳の頃から毎年欠かさず参拝。ここ数年は月に2回。

 

★本殿前の舞台にある龍の絵馬。

 

 

★1月10日 西宮神社。えべっさんの愛称で親しまれる商売繁盛の神様。

 

★名物の大マグロ。みんな小銭を貼りつけて祈願(^^)v

 

★えべっさんといえば、福娘。毎年倍率は3000人近くが応募し、70倍。選ばれると、就職が断然有利になります。企業が縁起を担いで、福にあやかりたいと必ず採用(^^)V 福を門前払いすると、その企業の業績は悪化しますからね。

実際、古くは私がモデルとして撮影した女の子は大手一流商社に採用。2年前は、モデルとして撮影した女の子の娘さんが外資系有名企業に採用されましたね。

時代の流れを感じます・・・( ;∀;)

 

★皆さん、並ぶのが嫌いなのか、空いているところで福笹買ってましたが、私は一番笑顔の素敵な女の子から買います(*^^*) これは、お守りもおみくじも同じです(^^)v 

そうそう、宝くじも笑顔が素敵なおばさんから買います(^^)v

 

★1月12日 神戸湊川神社。さすがこの時期になると境内は閑散・・・でも・・・↓

 

★湊川神社の帰り、神戸中華街も平日ゆえ人通りは少なかったので、「老祥記(ろうしょうき)の豚まん買って帰ろ!」と喜び勇んでいくと、約80人長蛇の列・・・(+_+) 諦めました。

 

 

 

 

 






 


■ファンクラブ活動日記~49年前にタイムスリップ!

(前回のあらすじ~)

1974年8月1日(木)大阪市立青少年会館小ホールで「第8回 フィルムコンサート&ミーティング」を開催。170名のメンバーが出席。いろいろ機材のトラブルはあったが、過去8回の中で一番自由に進行できた集会だった。

その前の74年3月「第7回」から独立採算制になり、収益は大阪支部で管理してよいとのことで、初めてオズモンズのロゴマーク入りTシャツを制作販売した。今振り返れば、いろいろ問題があると思うが、当時はまったく気にならなかった。毎回ホールを探すのに1万円の予算で苦労していたので、なんとしてでも大阪支部で活動資金を蓄えておきたかった。


■8月16日(金)~19日(月)3泊4日の東京旅行
※つまらない話ですが、お付き合いください(^-^;

1970年8月の1回目東京旅行は新幹線こだまで。73年1月の2回目はお金が無く夜行列車に飛び乗り、名古屋終着とは知らず、同行の友人の親戚の家が運よく三重県津市にあり、一泊お世話になって翌日新幹線で東京へ。3回目の今回は、10万円の大金?持って新幹線ひかりで意気揚々と出発!

※この半年後に大学を卒業し広告代理店に勤め、航空会社が取引先ゆえ飛行機で毎週、日本全国取材撮影で飛び回り、自社の東京本社には隔週で1週間滞在することになるほど飛行機を利用するとは思ってもいなかった。当時、飛行機はまだちょっと高級で、サラリーマンは新幹線利用が多かった時代。

東京旅行には、高校3年間の友人で自宅も近かった栄島(エイジマ)君と二人で。彼は九州産業大学在学中で大阪に帰省していた。彼は私と同様、映画会社に就活するほど映画好きで、この旅行の目的も東京調布の日活撮影所を見学することだった。ゆえに1日目は私はオズモンズ・ファンクラブと事務所のA.M.P訪問。彼は日活撮影所見学と別行動。2日目は鎌倉大仏見学と海水浴。3日目は東京見学の計画だった。計画といっても宿泊先も決めずの行き当たりばったり。これが最後まで祟るとは・・・。

●16日(金)1日目

1、銀座、上野、原宿へ


7時40分新幹線。11時前に東京着。盆休みで列車は満席。栄島が日活に電話すると知人の担当者が盆休み。撮影所も盆休み?? 撮影所に盆休みがあるとは知らなかった。栄島は落胆・・。ここから見るものすべてに対してボヤキが入る。

私も、A.M.PMimi井上さんと約束もしておらず、東京へ行くことも伝えてはいなかった。とりあえず東京駅から電話するが誰もでなかった。思えば、世間はお盆だった・・・('ω')

東京で私が一番最初に驚いたのは、大阪で500円ぐらいの料理が東京では800~1000円。しかも不味いこと。八重洲で食事。栄島、不満だらけ。銀座へ。栄島の性分に合わずここでもボヤキ。上野のアメ横へ。栄島は上品な街より下町が好きでようやく笑顔になった。

真夏で暑く、おまけに台風が接近、生温かい風がきつく、気分はよくなかった。

上野から一度は行ってみたかった原宿へ。駅を降りると小さな可愛いお店が建ち並び、お洒落な女の子で賑わっていたが、それに圧倒され、男2人でお店どころか、喫茶店すら入れず・・・。ただただ、炎天下、人混みの中、歩いて疲れる。栄島はもともと派出なことは嫌いで見るもの見るものすべてボヤキ倒していた。

夕方、東京駅に戻り、駅周辺のホテルなら移動に便利と思い電話をかけまくるが思ったより高額だったし、お盆で満室。栄島は安いホテルを希望。私はこれまでオズモンズと同行中は名のある一流シティホテルに泊めていただいていたので、二流はお断り。ここでも意見が合わず、結局、案内所で一泊二人6000円の浅草「鴎外荘」に。名前は立派だがロビーなど無く、汚い不愛想なホテルだった。今度は私が不平不満。栄島は部屋でテレビ。私は、タクシーで六本木へ。

鴎外荘~ネットで調べると、文豪・森鴎外の旧居跡。休業・再開を繰り返し2020年に閉館。最近まで営業していたようです。

2、松枝マネージャーと再開


すっかり日が落ち、六本木に着く。昨年一度来ており場所は分かっていたのでA.M.P(青山ミュージックプロモーション=青山音楽事務所の系列)へ行くがお盆休み。その並びの大きな白いビルの7階が青山音楽事務所(以前は近くの小さな鳥勝ビルに入っていた)と聞いていたので入居案内板を見るが社名がない。付近の人に尋ねると同じ白いビルでもその隣の小さなビルの7階だった(^-^;

エレベーターに乗り、一旦3階で降りてお手洗いへ。再びエレベーターに乗ると、なんと!松枝マネージャーが乘ってられた!

「アッ!松枝さん!」とびっくりして呼ぶと、「ええ、そうですョ・・・」と。私はサングラスをかけていたのですぐには分からなかったみたい。「大阪のナベです!」「いゃ~~分からなかった・・こんにちは!」「東京へ遊びに来たので寄ってみました!」「今、何してるの?」「はい・・まだ学生で・・・今、就活中です」

松枝さん、71年オズモンズ来日同行中はヨレヨレのブレザー姿だったが(>_<)、髪を長くし、柄モノのラフなシャツに白いスラックス、白いシューズ。見違えるほど格好良かった(^^)v

7階のオフィスは新しくてとても綺麗。受付カウンターもあった。奥は灯りを落としているのか薄暗い。青山ヨシオ社長が居たような気がした。外国人数人が話ながら出てきた。ボーっと見ていると、松枝さんが「こっち!」と呼ぶので、ドアが開いていた左の部屋に入ると、明るい空間にデスクがブースごとに仕切られ、奥の窓際に松枝さんのデスク。壁にはいろいろポスターが貼ってあった。こちらがマネージャーさんたちのオフィスらしい。社員さんは誰も居なかった。

大きなデスクのソファ椅子に松枝さんがどっかり座り、「ほら、以前君と一緒に活動していた女の子・・・今、アメリカに行ってるんだってね」「えっ!?・・・太った子??」「そうそう・・^_^;」「KoKo!?(初代ヘルパー Koko田渕)」「そうそう!Koko!(>_<)」「ここに来たんですか?(駄洒落じゃないよ(;o;))」「いや、電話してきたよ・・・。大人びた話ぷりだったよ。君も・・・すっかり大人になったね~」「いぇ、体だけ大きくて・・・」

そこで、松枝さんのデスクの電話が鳴り松枝さんが話し、受話器を置いて「じゃあ、これからお客さんなので・・・」(えっ~~KoKoの近況聞きに来たんじゃないのに~~~(>_<))「はい(^-^;、ではこれで失礼します」「それじゃ~」「あっ、松枝さん、僕はまだファンクラブ活動やってますので・・・では、失礼します」と一礼して事務所を後にする(「この間約5分。椅子にも座らせえてもらえなかった・・(+_+)」と日記に)。

3、上野で食事、浅草のホテルへ
 

タクシーで六本木から浅草のホテルまで。明日鎌倉に行く予定だったが、運転手が「台風で明日明後日は遊泳できないのでは」と。そういえば東京もだんだん風が強まってきた。ホテルに戻り、周辺は何も店がなく、栄島と上野まで出て夕食。テレビは11時までの時間制限アリ。明日どうするか話し合うがまとまらず。とうとう雨が降ってきた・・・。

とりあえず、東京企画委員Sachiko斉藤さんに電話すると、明日、ファンクラブに行くというので私も10時半にお伺いすることを伝えた。

◯17日(土)2日目

朝10時にホテルを出て東京駅のロッカーに荷物を入れる。栄島とは3時まで自由行動に。

1.ファンクラブの事務所で斉藤さん達と再会
 

地下鉄で六本木。昨夜の青山音楽事務所の入居するビルの1階でSachiko斉藤さん達企画委員3人が待っていてくれた。Sachikoさんともう一人は8月1日の大阪フィルムコンサートにゲスト出演していただいたので顔見知り。もう一人は初対面。

案内されて近くのビルの11階の小さな部屋へ。以前は青山音楽事務所の中にファンクラブの部屋があったが、今は別になっていた。ドアにオズモンズのポスター。中に入ると以前見た同じ本棚があった。懐かしい! 部屋は整頓されていて壁にオズモンズのパネルなど。今なら携帯でパチリと撮れるが当時はカメラなどよほどのことでない限り持ち歩かない時代。

部屋の中央にテーブルがあり4人が座ると狭いくらい。まず最初にsachikoさんに8月1日大阪フィルムコンサートの収支明細と利益6万円を渡し、成功したことを伝える(画像)。

※大阪は独立採算制になったのに、なぜ利益をそのまますべて渡したのか? 日記にその理由の記載がない。Tシャツを独断で制作販売したことの負い目か? いまだに謎・・・。

話題はオズモンズのことファンクラブのことなど、いろあり過ぎて4人で盛り上がる。電話もよくかかってくる。企画委員の方が、サンドイッチ・ジュース・プリンを買って来てくれる。そういえば・・・お土産を買って来なかった。気が利かない・・・(>_<)

大阪でお会いした企画委員の方2人も来られる。さらに、名古屋から東京見物兼ねて来たというメンバー2人も。部屋は8人でぎっしり。賑やかなこと。男は僕だけ(^-^; いつものことで慣れていた。

2時半まで楽しく過ごし、お別れ。この日、Sachikoさんが「これからFCの会費はいりません。永久会員にします」と言ってくれた。

2、八重洲で食事、新橋のホテルへ

3時に八重洲で栄島と落ち合う。遅い昼食を駅構内で。雨が降って来たので鎌倉には行けず。まずは今夜のホテルを探すことに。ここでも栄島と意見が合わず、彼は安いホテルを。私はせめてシティホテルを。今夜は私の希望優先で新橋第一ホテルに決まる。もう5時になっていた・・。何しに東京へ?ホテルを探しに?(>_<)

ホテルに入り、夕食に銀座へ出るが、まったくお店を知らない。高級そうな店ばかりで入り辛く、結局、ホテルのある新橋に戻りやっとありつけた。東京に飲食店を探しに?(>_<) 携帯電話のない時代は、最初にガイドブックで調べるしか方法はなかった。

部屋で明日どうするかを話し合う。せっかく来たのだから予定通り19日まで滞在することにした。

◯18日(日)3日目

1、栄島帰阪。銀座、原宿、目黒、渋谷、新橋、銀座・・・一人徘徊(>_<)

また今日も、ホテルを出て新橋から東京駅へ。荷物をロッカーに入れてまずはホテル探し。栄島がなんとなく迷っている様子。結局、彼は夕方に大阪に帰ると言い出しここで別れる。僕は電話で品川京浜ホテルを予約。先にホテルまで行ってフロントに荷物を預けるが、小さなホテルで気が滅入り、一旦駅まで行くがホテルへ引き返し、キャンセルして荷物を持って再び東京駅へ。何をしているのやら・・・(>_<)

電話で昨夜の新橋第一ホテルを予約。ならば最初から2泊予約すればよかった・・・。まだ3時過ぎ。部屋に入りシングルベッドに横になりテレビを見る。何しに東京へきたのやら・・・。情けない・・・。

4時に出て銀座へ。雨は上がり、歩行者天国も空いていてブラブラ歩く。原宿へ。地下鉄で表参道まで行きそこから歩く。結構な距離があり疲れたが、奇抜なファッションの女の子がたくさんいて、大阪とはやっぱり違う!と感動。国鉄の原宿まで歩く。目黒へ。薄暗くなってきた。夕食の店を探すが、入りにくい店ばかり・・・。渋谷へ。夕食の店を探すが、やはりよく分からない・・・。結局、新橋へ戻るが、やはり見つからず、銀座へ出てようやく8時に夕食に。何しに東京へ・・・?(>_<)

ホテルに戻り、シングルの監獄部屋でテレビ。ファンクラブメンバーで以前何度かお話した新原さんへ電話すると、お母さんが出られて、私のことを知っておられて丁寧に応対してくださったが、あいにく新原さんは友達の家に泊まりに行っていると。新原さんのお友達の同じくメンバーの町田さんに電話すると出られて、懐かしく話す。後は、ビールとおつまみでテレビ。

◯19日(月)4日目

皮肉にも快晴に。10時に東京駅。荷物をロッカーに入れて六本木へ。昼食をとるため白い大きいなビルの中へ。オフィスビルだと思っていたらファッションビルだった。まずは2階の喫茶店に入るが食べる物がなくコーヒーだけ飲んで、地階でスパゲティを食べる。今ではなんともないが、当時は学生。高級店には入りにくかった。

1、Mimi井上さんと再会

11時40分に隣の小さな白いビルの7階、A.M.Pへ(昼食時に行くとはマナーも何も分かっていない学生だったと今思う)。入ると目の前のデスクにMimi井上さんがいらして、「アラ!?ナベくん。お久しぶり!どうぞどうぞ」と奥の応接室へ案内してくれる。大きなテレビがあり、壁にはオズモンズとベッテイ&クリスのゴールドディスクLP2枚、EP6枚飾ってあった。

久しぶりの再会でいろいろお話。Mimiさんは16日から18日まで箱根にある青山の別荘?に遊びに行っていたとのこと。

12時なのでMimiさんが食事に誘ってくれる(ホント、昼食時に訪問とは今振り返ると恥ずかしい・・・)。近くの高級レストラン。2階でMimiさんがオーダー。まず、ポタージュ。次にカットステーキ。最後にコールミルク。Mimiさん気を使って、ファンクラブ活動の思い出話やオズモンズの近況を楽しく話して下さったが、なにしろ僕一人。いつも横に居てくれたサブ・リーダーYuko小野ちゃんがいない。しかもMimiさんとテーブル対面で食事。ほとんど喉に通らず残した(これも今思えば失礼なこと・・・)。

2、青山ヨシオ社長と再会

途中でMimiさんが席を立ち電話をしに階下の公衆電話へ(携帯電話のない時代)。しばらくして戻って来られたら、横になんと!青山ヨシオ社長が!僕はびっくりして立ち上がり「お久しぶりです。ご無沙汰しております。東京に遊びに来ました」とご挨拶(で、失礼にもすぐに座る・・・)。社長とMimiさんは立ったまま。社長が「ずいぶん、イメージチェンジだね」と。私は濃いサングラスをしていた(思えばMimiさんと食事中も掛けたままだった。室内にも拘わらず・・・アホやね(>_<))。社長とMimiさんが二言三言話し僕に振るが、あがってしまっていい加減な返事。何も覚えてはいない・・・。社長が「じぁあ!頑張ってください」と。僕は立ち上がって「ありがとうございます」と一礼。僅か5分ほど。

Mimiさんに聞くと、下で電話しているとその横で社長も電話していて、ナベくんが大阪から来ていること伝えると、「じぁあ、ちょっと挨拶しよう」とわざわざ2階へ上がって来てくれたとのこと。うれしかった。

その後も、ファンクラブの活動のことをいろいろ話し、①大阪を引き続き独立採算制とすること。②費用が賄えるなら大阪に事務所を設けてもいい。③ファンクラブの会報の2頁を「大阪コーナー」とする。と約束してくださった。

時計はすでに2時半。突然の訪問にも拘わらず、長い時間相手をしてくださった。名残を惜しんでお別れ・・・(T_T)

3、時間を早めて帰阪

青山音楽事務所とA.M.Pを見学し、青山社長、Mimi井上さん、Sachiko斉藤さん達にお会いできたので、これ以上東京に居ても仕方がないゆえ東京駅へ。6時半のチケットを変更して3時15分の新幹線ひかりに乗る。三席の通路側。隣はカップル。目障り('ω')

6時半新大阪。7時半帰宅。


※これがファンクラブ活動最後の東京だった。目的は就活だった。出来れば芸能事務所か映画会社で裏方として働きたかった。しかし、映画会社は当時テレビの進出で大不況時代に入り、新卒募集どころか会社そのものの存在が危ぶまれていた。事実、大映が倒産。日活が青春路線からポルノ路線に。私が希望していた東映も募集は中止していた。一方、芸能事務所は、以前、オズモンズのサブ・マネージャ―だったマイク宮園さんが「芸能界は大変なところ。人も目まぐるしく変わってる」との言葉が頭にあり、また大阪を離れ東京で働くことも家の事情で躊躇していた。ともあれ、A.M.Pから一切そのような話は出なかったので、これを境に就活を再検討するようになった。

つづく~~

※つまらない記事になりすみません。次回は、ジャクソン5来日の記事です。ご期待ください。

 

★71年オズモンズ4回目の来日以降、来日のニュースが流れては消えた72年、73年、74年・・・。海外雑誌にはティーンのアイドルとして毎号記事や写真が掲載されていましたが、国内雑誌での掲載は日増しに少なくなっていきましたね。ゆえに、1974年7・8月ファンクラブの会報を掲載しておきます。

 

 

★この頃、ファンクラブの地方リーダーの中で北海道、四国、南九州、北九州のリーダーが新たに選出されたようです。記憶にもないですし、連絡を取り合ったこともないですね。地方リーダーで一番古いのは近畿地区の僕でした( ;∀;) 

 

オズモンズの招聘元・青山音楽事務所はこの頃、国内で女性デュオのベッツイ&クリスをマネージメント。海外からはマイク・カーブ・コングリゲエイションを招聘。この後、テニスなどスポーツ界でも海外プロ選手の招聘と躍進著しい時代でした。マイク・カーブは米国でレコード会社社長兼オズモンズのプロデューサであり、自ら音楽グループを結成、全米の舞台で活躍中でした。今でいうイケメンでしたね。ネットで調べれば今78歳。お元気そうです(^o^)/

 

★今でも大切に保管しているオズモンズのポスターの一部。ファンクラブ活動中は部屋に飾っていました。右のポスター「OSMONDS THE PLAN」の左端の写真⇓⇓

 

★1970年大阪万国博覧会公演で来日したオズモンズを囲んでの「ファンクラブの集い」。初めてオズモンズと一緒に写真を撮った記念すべき1枚です。後に近畿初代ヘルパーになってくれたKei奥秋Kumi清水Chikin吉岡Kuni宮川や、ファンクラブメンバーで最初に声をかけてくれた神代さん。思い出いっぱい! ハッピーボタンは僕です(^-^;

 

★1974年8月1日「第8回近畿フィルムコンサート&ミーティング」の収支表。東京のファンクラブ事務所で企画委員Satiko斉藤さんに現金6万円と共にお渡ししました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




























 

■ファンクラブ活動日記~49年前にタイムスリップ!

前日まで~

「オズモンズ・コンサート・ツアー」(7月21日~28日 米国ラスベガス)サブ・リーダーAoi山本Yuko小野が参加したので、不在中は準ヘルパーの(京都)Etuko山本Junko芝原(大阪)Mayumi藤原Megumi橋本、(神戸)Tizuru東Megumi和田を総動員して開催準備に取り掛かった。

収益を挙げるため、オズモンズのロゴ入りTシャツ100枚を初代ヘルパーKumi清水の友人に発注。完成品は満足のできる仕上がりで当日会場に納品してもらうことにした。

前夜7月31日、ゲストとして来阪されたFC東京企画委員Satiko斉藤さん達4名を新阪急ホテルで出迎え、3時間打ち合わせ。準備はすべて完了した。

それ以前、A.M.PディレクターMimi井上さんからは借りれるだけのオズモンズのフィルムやスライドを送ってもらっていた。

僕は8回目になる今回の集会にこれまで以上に力を注いでいた。①動員数、②プログラムの満足度、そして③収益。この三項目を成功させてFC東京企画委員だけでなく招聘元のA.M.Pにもその力を認めてもらいたい一心だった。

そのため、サブ・リーダーのAoiとYukoの二人を司会に、僕が総合司会を担当することにし、映写機の操作など裏の仕事を友人の大学生鈴木が担当。さらに、集会の写真を東京へ送るため、先日カメラを借りた京都ヘルパーJunko芝原のボーイフレンド・勝(かつ)ちゃん(高校生)にカメラマンとして手伝ってもらうことにした。

会場は、迷うことなくいつもの森の宮青少年会館小ホール。緞帳付きの高い舞台、すり鉢状の300の客席の独立したホールが、半日6000円、機材を入れて1万円は魅力的だった。「平坦なホールで移動席の方が話しやすい」という意見あったが、見栄えは断然こちらが勝っていた。それに、小ホール入口前の立て看板、会館玄関ロビーの案内掲示板、会館パンフの「今月の催し物」などに「オズモンド・ブラザース・ファン・クラブ」の名前が記載され、よき宣伝になった。

■1974年8月1日(木)第8回「フィルムコンサート&ミーティング(森の宮青少年会館小ホール)開演10時半~終演16時。

9時00分 会場に着くと、すでにサブ・リーダーのAoi山本、Yuko小野、準ヘルパーの(京都)Etuko山本、Junko芝原(大阪)Mayumi藤原、Megumi橋本、(神戸)Tizuru東、Megumi和田や、友達の鈴木や勝っちゃんも来ていた。スライド映写機だけは会館にはなく毎回大阪本町の教映社からレンタルしていた。今日は勝っちゃんにタクシーで引き取りに行ってもらうことに。

9時に新阪急ホテルに宿泊している東京企画委員4名がオズモンズのフイルムを持って來る予定が来ず・・。イライラしながら待って、10時ぎりぎりに到着した。

早速、鈴木を映写室に連れていき操作説明するが、この友、性格は優しいが言い換えれば優柔不断・・・積極性は0・・・いくら説明しても覚えが悪く、助けてもらう予定が結局余計な荷物を背負いこむ形に・・・。

結局10時半の予定が30分遅れで開演。僕はこの時点で精神的に疲れがどっと出ていた・・・。裏方が沢山いても役に立たなければなんにもならない。邪魔なだけ・・・(+_+)

■プログラム

〇11時 開演。動員178名/300名収容。

1、オズモンズ・ロス・フォーラム・ライブ・フィルム
何度も上映してきたフィルム。客を引き付ける目的で「あいさつ」より先に上映。しかし・・音声が小さく、何度も客席最後尾の映写室に駆け込み、鈴木の操作をカバー。結局、裏方に逆戻り('ω')

2、リーダーのごあいさつ
面白可笑しく会場を和ませる予定が、僕自身すでに疲れており、話もしどろもどろ・・。すぐに次のコーナーへ移る。

3、ゲスト~東京企画委員を囲んで
僕が東京企画委員Satiko斉藤さん達4人を舞台に上げて一人一人紹介。後は企画委員がファンクラブのことやオズモンズのことを話して、最後にメンバーからの質問コーナーになる予定が、企画委員4人が約180名の客を前にして終始あがりっぱなし・・・。メンバーからの質問も出ず、会場が白ける。

思えば初代東京企画委員Rina後藤さんYoko井上さんKako勝山さんManny前田さんErika盛野さんの5人は舞台度胸があり話術が上手かった。お洒落で華もあり、会が終わった後も大阪のメンバーが、お互い高校生同じ年頃なのに「お姉さん」って感じで回りを囲んでいろいろ話をしていた。

大阪の初代ヘルパーKoko田淵kei奥秋Kumi清水達も大阪弁で面白可笑しく話す度胸はあった。何のとり得も無かったのは僕だけだったね(+_+)

4、オズモンズ近況スライド上映
オズモンズ最新のライブや私生活のスライドを1枚づつ上映。勝っちゃんが映写機を上手く操作してくれて大助かり。さすがカメラ好き。機器に強かった。

〇13時。休憩~Tシャツ、ポスター、写真販売。


森の宮青少年会館の本館には喫茶店や広いロビーがあり休憩できる。僕やサブ・リーダやヘルパーは、会場でTシャツの即売会。1枚1600円。予想どおり売れ行きは良かった。空いた時間に喫茶店に駆け込みアイスコーヒーで一息入れる。ふと見ると、鈴木が優雅にビフテキを食べていた・・・昼食、夕食をご馳走する約束だった。役立たずでも、食べることは一人前か・・・(-_-;)

この休憩時間に、古き友ともいえるメンバーのNoriko神山さんが声をかけてくれた。大学生になられてた。お呼びしたのは僕なのにすっかり忘れていた。Norikoさんは5年前の69年ホテルプラザの「第1回ファンクラブの集い」(今でいうファンミ)で、女性の中で男性ただ一人、緊張していた僕に声をかけてくれた最初のFCメンバー。当時、大阪の名門私立四天王寺高校1回生。後に、僕がリーダーになった時、一番に「ヘルパーになってください」とお願いしたが忙しくて無理とのことだった。この日も挨拶の後、会の途中で帰られた。これが最後になった(T_T)/~~~


〇13時半 二部開演。


6、オズモンズ・スタジオ・ライブ・フィルム上映(中止)
テレビで放映されたスタジオ・ライブのフィルムを上映する予定が、結局、機器の不具合で音声がまったく出なくなり会館係員を呼ぶがすぐには直らず一旦中止に。

7、リーダー・コーナー
私がオズモンズのこれまでの来日エピソードを面白可笑しく話す予定が、元々話が下手で加えて疲れで気が乘らず、会場は白けて10分で次のコーナーに移る。

8、フレンズ・コーナー
会場に来ているメンバーを舞台に上げて、思い思いにオズモンズのことを語ってもらう予定だったが、いきなり舞台で上手に話が出来る中・高校生はいなくて、終始白けてこれも予定より早く打ち切る。

10、カルピスCMスライド上映
オズモンズのカルピス最新CMの撮影風景やオフショットを1枚づつスライド上映。これ以上失敗は許されないので、僕も勝っちゃんの横で終始お手伝い。

11、ヘルパー・コーナー
先日の「オズモンズ・コンサート・ツアー」に参加したサブ・リーダーのAoiとYukoが舞台に上がり、最初、ラスベガスのライブのテープを自前のカセットデッキで流すが、素人録音で声が小さいのと雑音が多く、会場が白け、僕がトークに切り替えるように指示。AoiとOnoがショーの事、ファンミーティングの事などを大阪弁でクラスの友達に気さくに話す感じでトーク。これが予想以上に受けたのでしばらく舞台を任せることにした。

僕はこの間、ロビーで初代ヘルパーのKumi清水と次のグッズ制作の打ち合わせをしていた。オズモンズの事より、意識はこちらに傾いていた・・・(:_;)

12、オズモンズ・スタジオ・ライブ・フィルム再上映
先ほど映写機の不具合で中止したフィルム。会館係員が修理をしようやく直ったとのことで、再上映再開。しかし、画像も音声もよくはなかった・・・。

13、閉会のあいさつ
僕が舞台で締めの挨拶。東京企画委員4人が挨拶。時間が押し迫り簡単に済ませる。

〇3時半 閉演~Tシャツ販売。

残り30分、会場でTシャツ販売。100枚すべて完売。東京企画委員が新幹線の時間が迫っているとのこと。いつもなら新大阪駅に一緒に行って見送るのだが、販売の方が忙しく、挨拶もそこそこにその場でお別れ。悪い事をした・・・。

〇4時 閉会。

いつもは終わったらみんなで反省会を兼ねて大阪梅田阪急三番街のレストランで食事をしていたが、僕にその気が起こらなかったし、AoiやYukoはじめヘルパー達もその気になっていない様子だったので、みんなと別行動で友達の鈴木と二人で梅田へ出て食事。その後、行きつけのバーで飲み、深夜0時過ぎに帰宅。AoiとYukoはヘルパー数人と会館の喫茶店で御茶して解散したとのこと。

●反省
この会ほど、年齢の差を感じた集会は過去になかった。僕は同じファン同志だと思っていても、僕をよく知らないメンバーは僕を関係者だと思っていて少し遠目に見ている感じがひしひしと伝わった。僕はこの時21歳。メンバーは中・高校生だから3~6歳の差・・・。

 

歳の差もあったけど、僕の格好もよくなかった・・・。長髪にアランの真似をしてもみあげを伸ばし、タータンチェックのパンタロンに柄モノの派手なプリントシャツ。アランやプレスリーがやればカッコイイけど、僕がやればただの町のあんちゃん。しかもサングラスをかけていた。こうなるとチンピラと同じ(>_<) 誰も寄り付かなるのは当たり前。その僕がいつもは裏方なのに、今回表に立って進行を務めたのだから成功するわけがない・・・(>_<)

3~4年前、初代ヘルパーのKoko田淵やKei奥秋に「ナベくん!何してるの~ダメね~」なんてよく叱られたことが懐かしく思えた(^^;)

「次回からは、AoiとYukoに進行は任せよう・・・いや・・・もうファンクラブはいいかな・・・」と、当時の日記は締めくくっていた。

 

そうそう、僕は以来、社会人になってももみあげを伸ばし続け、半世紀たった今でも伸ばしています(>_<)

~~

8月2日(金)
午前9時に大阪梅田の新阪急ホテルでYuko小野とその友達の藤松さんに再び会う。ロビーのカフェで雑談。Yukoに会の収益が約10万円あることを伝えた。11時に別れる。藤松さんは、この後山口県に帰るとのこと。

夜、AoiとYukoとヘルパー達に礼状を書く。

8月3日(土)
東京企画委員Satiko斉藤さんに、お礼のお電話をかける。



つづく~~

 

★1974年は、世界中で大人気!特にアメリカとイギリスが凄かったですね。その影響で、日本には71年来日からすでに3年・・・来日のニュースが流れては消え、FCメンバーを何度落涙させたことか・・・(T_T)

 

★レコードのミリオンセラーやミリオンダラーの証であるゴールド・ディスク賞は1年で10個獲得(1971年度)、当時、1年での記録はビートルズの9個プレスリーの8個を抜いてトップでしたね。

 

★当時のFC会報の一部。

 

★当時のFC会報の東京での「ミーティング」の記事。東京では「集い」という名称でした。

 

★当時のFC会報の近畿支部「第8回フィルムコンサート&ミーティング」の案内記事。

 

 


 

■ファンクラブ活動日記~49年前にタイムスリップ!

前回に引き続き、74年6月から8月1日「第8回フィルムコンサート&ミーティング」開催前日までの2ヶ月の主な活動を日記から転載します。

■ジャクソン5、2回目来日速報!


6月26日(水)夜9時、サブ・リーダーAoi山本から電話。「30日、東京でオズモンズ・コンサート・ツアーの説明会があるので行ってきます」とわざわざ連絡してくれた。その時「ジャクソン5ディフランコ・ファミリーが10月来日!!」のビッグニュースを教えてくれた。いつも情報はAoiがいち早く教えてくれた。ジャクソン5は73年5月初来日以来2回目。

ジャクソン5~ご存じマイケル・ジャクソンの兄弟グループですね。ネットで検索すれば多くの情報がヒットしますので詳しくはそちらで。僕のブログにも『☆ジャクソン5☆73年初来日大阪公演☆マイケル・ジャクソンが声変わりに・・・』『★73年4~8月★ジャクソン5初来日!~F.C活動以外の楽しい出来事★オズモンズ』のタイトル(共に2022年9月)で掲載しています。

1969年「♪帰ってほしいの」でデビュー。立て続けて4曲がビルボード第1位に輝き、僅か1年でトップアーティストに躍り出たジャクソン5ですが、この時期は完全に低迷し移籍の問題等も出てました。逆に我らのオズモンズは1971年「♪ワン・バッド・アップル」の大ヒット以降も順調にヒット曲を出し、ゴールドディスクはビートルズを抜いて10個獲得。世界中のティーンエイジャーを熱狂させていました。何より、オズモンズにゴシップ記事は皆無でしたね。

これ以降、ジャクソン5としての復活は無かったと思います。ただ、その中に天才マイケル・ジャクソンがいて、後の大活躍はご存じのとおりです。

僕もメンバーも当時、ジャクソン5をオズモンズのライバルなんて思ってなかったですね。「まったく別物。音楽の世界が違うし、まぁ、同じ兄弟グループだからショーぐらいは今後の参考に観に行こうか~」って感じでした(^^)v 簡単に言えば、「オズモンズは兄弟5人が一つとなって凄かった。ジャクソン5はマイケル一人がそれい以上に凄かった」ということです。

ディフランコ・ファミリー~こちらも僕のブログ『☆74年☆デフランコ・ファミリー☆大阪公演の思い出☆osmonds』(2018年9月)のタイトルで掲載しています。もちろん大阪公演を観ましたが「♪アブラカダブラ」がヒットしたこと、トニー・ディフランコという可愛い少年がいたことぐらいで、ステージの記憶はまったく残ってません(>_<)

■アラン・オズモンド婚約の吉報!

7月8日(月)夜8時、Aoiから電話。今度は「アラン、婚約!!」のビッグニュース。オズモンズの一番上(実際は三男)のアラン・オズモンドが婚約したとのこと。一年前の73年9月、三番目(実際は五男)のメリル・オズモンドが婚約した時もAoiからの電話だった。Aoiは大のメリル推し。この時、ショックの余り「死ぬ~~~!(*ノωノ)」と発狂寸前だった。僕は笑いを抑えながら慰めた(^^;)

男の僕は、ファンの女の子の気持ちは分からない。ただ、思ったことは「オズモンズ五人兄弟に、色々な人が入り込んでくるな・・」と。もちろん、モルモン教の家族愛は知っていたし、将来大家族になることはFCメンバーならみんな理解していたけれど・・・素直に喜ぶことは出来なかった。「結婚、ちょっと早いのでは・・・? ようやく人気が出てきたのに・・・」と思った。

その思いが強くなったのは、翌75年3月オズモンズ5回目の来日時にアランとメリルの奥さんが同行来日。海外では当たり前でも、日本ではアイドル(オズモンズも当時はそう見られてました)が奥さんと公の場でいつも一緒というのは珍しかった。僕は「ファンが離れ、日本でのブームは終わり、FCも解散するのでは・・・」と不安な気持ちになったこと、今でも鮮明に覚えています。

その思いが的中したかのように、オズモンズの海外での人気はこの後も続きましたが、来日はこの五回目が最後になり、やがて話題に上がらなくなり、招聘元のA.M.P(旧:青山音楽事務所)も契約が切れ、同時にFCも自然解散になりました。

振り返れば、僕はオズモンド・ブラザーズとして彼らが日本で人気が出始めた頃にFCに入会し、彼らを5回も迎えることができたのです。「高校・大学時代何かクラブに入ってましたか?」と尋ねられれば「はい、オズモンズ・ファン・クラブです」と(^^)v しかも部員はみんな同じ世代の可愛い中・高校生の女の子。正にオズモンズと青山音楽事務所とFCメンバーのお蔭で楽しい青春時代になりました。しかも活動の場は華やかな芸能界(^O^)/

■オズモンズのTシャツ制作を発注!

7月13日(土)夜、先日久しぶりに会った初代ヘルパーKumi清水と梅田で落ち合い、友達が経営しているスナックに遊びに行く。なんと偶然!大阪桜橋の芸能プロモーター「キョードー大阪」と同じビル地階の飲食街。店の名が「スナックA&T」。小さなカウンターだけのバーでKumiの知人の男性がオーナー店長。僕より少し年上。僕は大学に入りお酒を覚えまったく酔わないほど強かったので、深夜2時近くまで楽しんだ。自宅は当時、梅田から歩いて40分の近距離。大阪梅田界隈は小学生の頃から僕の庭のようなもんでした(^^)v

この時、オーナーが趣味で絵柄やロゴを用いたオリジナルのTシャツなどを制作していることを知った。今ではデザインなど誰でも簡単にパソコンで出来るけど、当時はまだ珍しかった。オズモンズのロゴマークを背中に入れたTシャツをその場で提案したら「出来る」との返事。僕は、近畿支部が独立採算制になりなんとしても近畿支部の活動資金が欲しかった。「オズモンズのグッズを作れば売れるだろうな・・・」と以前から思っていたので、その場で100枚注文した。費用は大金95000円。そんなお金すぐに用意はできないけれど、売れる自信はあった。

アイドル・グッズ~今でこそ、アイドルの写真やペンライトやタオルなど、あらゆるグッズが販売されていますが、当時はジャニーズ系でもブロマイドぐらいだったような気がします。我らオズモンズのFCはそのブロマイドさえ販売していませんでした。これは海外アーティストゆえ著作権が厳しかったからだと思いますが、当時の僕はそんなことまったくお構いなし(^^;) 3月の「第7回フィルムコンサート&ミーティング」でオズモンズの〝生写真〟を販売した事も当時としては珍しかったと思います。

7月16日(火)アラン・オズモンド結婚の吉報! Aoiから「アラン婚約!」のニュースを聞いたのが8日。1週間で結婚はないだろうから、婚約の情報キャッチに時差があったね。

7月18日(木)京都ヘルパーEtuko山本Junko芝原と大阪梅田の喫茶店で打ち合わせ。二人は「京都ミ―テイング」開催に向けて熱心で何度も電話をくれた。この時、Junko芝原がボーイフレンドを連れて来た。真面目でカッコイイ高校生。この子がすぐに役立つとは思ってもいなかった・・・(つづきを見てね)。

 

FCのメンバーがボーイフレンドを連れて来たのはこれが最初だった。みんな高校生だからBFの一人や二人いても不思議ではないけれど、メンバーはもちろんヘルパーからもそんな話は一度も聞かなかったなぁ・・・。みんな「オズモンズ命」だったからね(^^)v

 

あっ! サブ・リーダーのAoiだけは別だった・・(^_-)-☆ しかも相手は!・・・(*ノωノ)

■カメラを借りに夜に大阪から京都へ

※ここで当時の日記より、7月20日の私的な行動を初公開(^^;)

サブ・リーダーYuko小野から「いいカメラでオズモンズを撮影したいので、ナベさんカメラ貸してください」とツアー出発直前に頼まれた。しかし、私のカメラは性能がよくなかったので友人・知人に尋ねたが駄目だった。ふと、16日会ったJunko芝原のボーイフレンドがカメラに凝っている話を思い出した。当時、高校生では珍しく、高級な一眼レフカメラで望遠レンズも何本か持っているとのこと。19日の夜、Junko芝原に電話して借りれるか聞いてくれるようにお願いする。即OK。明日、京都まで受け取りに行く約束をした。

■7月20日(土)
19時10分 阪神百貨店アルバイト終了。急いで国鉄(JR)大阪駅から京都駅へ。
20時20分 到着が予定より遅れ、改札口でEtuko山本、Junko芝原とボーイフレンドの4人が待っててくれた。近くの喫茶店でカメラの操作説明を聞く。200ミリ望遠レンズも持って来てくれた。
21時10分 とんぼ返りで大阪へ。
22時10分 国鉄大阪駅から阪急梅田駅まで走り、阪急北千里線で淡路駅乗り換え、Yuko小野の自宅がある駅へ。
22時45分 駅に到着。Yukoへ電話。お母さんが出られて「近くに出ていてすぐ戻る」と。
23時00分 再度電話するとyukoが出て、駅近くの喫茶店で待ち合わせ。
23時07分 Yukoと友達の女の子が来て、急いでカメラの説明。
23時20分 阪急電車で大阪梅田へ。国鉄環状線で自宅へ。
 0時00分 帰宅。食事。
 1時 過ぎ 就寝。
 

■7月21日(日)

「オズモンズ・コンサート・ツアー」Aoi山本、Yuko小野、ラスベガスへ出発。

阪神百貨店のバイト後で疲れてはいたが、不思議と達成感はあった。さて、このカメラ、Yukoは使ってくれたのかな・・・? 使ったという話は聞かなかったので、やはりいきなり一眼レフは無理だったのかな・・・。 ホント、今なら携帯電話で写真も動画も綺麗で簡単。便利な世の中になったよね。

 

■東京企画委員4人来阪、8月1日の打ち合わせ


7月30日(火)阪神百貨店内バイト先で女子社員さんが退職されるのでその送別会。バイト仲間に良くしてくれた優しい社員さんなので、社員さんやバイト仲間十数人と大阪梅田で送別会。鍋料理を囲みその後カラオケ・スナックで大騒ぎ。終電車に間に合わず8名ほどで安いビジネスホテルに雪崩れ込み、部屋に集まりまた宴会(^^;) フロント係員に叱られた(>_<)

7月31日(水)自宅に朝帰り(+_+)。支度して再び大阪梅田へ。親しきバイト仲間のNakajimaさん(男性)、Oieさん(女性)と3人でランチ。


食後すぐ、13日に注文したTシャツが出来上がったとのことで、先日のスナック・バーに商品を見に行く。初代ヘルパーKumi清水も来ていた。オズモンズの赤いロゴマークが背中にくっきり。想像していた以上に綺麗な出来栄えで5枚だけ持ち帰り、残り95枚は明日会場へ届けてもらうことに。代金95000円は友人2人から借りた。

夜6時半 ツアーから28日帰国したAoi山本、Yuko小野と新阪急ホテルで今日東京から着かれたFC企画委員Saitouさん達4人を出迎える。さっそく明日の「第8回フィルムコンサート&ミーティング」の打ち合わせ。Yukoが藤松さんというお洒落な友達を連れて来ていた。先日のツアーで親しくなり山口県から遊びに来てyukoの自宅に泊まって明日帰るとのこと。※お顔はまったく思い出せないが、なんか・・大人びたお洒落な方だったような気がする・・・。

 

女性7名と男性1名の8名でホテルロビーのカフェへ。軽い軽食で約3時間(>_<)、今までにない熱の入った打ち合わせになり、明日の成功を確信した。予想参会者250名。Tシャツ利益65000円(1枚1600円定価)を予定。

ここで、Aoi、Yukoからコンサート・ツアーのお土産に、オズモンズのパンフレット、ダニー&マリーの新曲EPレコード、ペーパーナイフ、灰皿をいただく。嬉しかった(^o^)/

若さという年齢的なものだけでなく精神的に毎日楽しく、FC活動、バイト、学校の優先順位で(>_<)、休む暇なく駆けずり廻ってた。正に青春真っ只中!!

つづく~~

 

★1974年当時は奥さん二人と一緒の写真が多かった。左から、メリル奥さんのメアリーダニーアラン奥さんのスーザンウェインジェイ。前列にマリージミー

 

★1974年FC会報のアラン婚約速報。

 

★1973年当時のジャクソン5のポスター。

もちろん、部屋には飾らずファイルに保管。部屋はオズモンズの聖域ですから(^^;)

 

★1973年ジャクソン5初来日。5月1日大阪フェスティバル公演チケットと宣伝チラシ。チラシの後ろ2枚は「幻のチラシ」といわれましたね。そのお話はまたブログで・・・。

 

★1974年10月初来日ディフランコ・ファミリーの宣伝チラシやブロマイド。

 

1974年10月5日大阪厚生年金会館公演チケット。なんと!! A.M.PディレクターMimi井上さんとデート??観賞でした(;´∀`)

 

ディフランコ・ファミリー。男性3人、女性2人の五人でした。兄弟・姉妹・兄妹・兄妹弟・・・やっぱり、ファミリーか・・・ディフランコ5とでもすればよかったのに(^^;)

 

 

 

 

 


 

■ファンクラブ活動日記~49年前にタイムスリップ!

今回は、74年5月から8月1日「第8回フィルムコンサート&ミーティング」開催前日までの3ヶ月の主な活動を日記から転載します。

※前回までの出来事~

3月30日(土)「オズモンズ・フェア」(心斎橋三木楽器店小ホール)開催中にA.M.PディレクターMimi井上女史が「オズモンズのアメリカ公演に日本からファンを連れて行こうと考えてるの・・・。ナベくん、どう思う?」と雑談の中で言われた。「え~~~!アメリカですか!」貧乏学生の僕にとっては夢の話・・驚いた(:_;)

4月1日(日)~5月7日(木)ヘルパー5人とトラブル。約一ヵ月も・・・(+_+)
 

~~~

■「オズモンズ・コンサート・ツアー」
 

4月上旬 Mimiさんはすでに「オズモンズ・コンサート・ツアー」企画、準備にとりかかっておられた。ヘルパーとのトラブルで何度かお電話でお話した時に、ツアーを本格的に企画立案したことをお聞きし「ナベくん、メンバーに電話して参加呼び掛けてね」とお手伝い要請はすごく嬉しかった。

 

けど・・・メンバーからは良い返事はもらえなかった。なにしろ、海外旅行なんてまだ〝高嶺の花〟の時代。それに、メンバーみんな中・高校生。自分のお小遣いではムリ。僕自身、海外なんてこの5年後が初ですもん(^^;)

5月7日(火)Mimiさんからお電話。応募者多数で締め切ったとのこと。4月中頃から本格的にFCメンバー優先で募集したがはやはり応募者が少なく、Mimiさんは女の子向け週刊誌「セブンティーン」に募集記事を掲載したらすぐに予定の30名を超えたそうだ。

セブンティーン~1968年に集英社が創刊。掲載内容はファッション・少女漫画・芸能など。当時、オズモンズの記事や写真がよく掲載され、僕も書店で恥ずかしかったけど買ってました(*^^*) 08年月刊誌に、22年からは季刊になっているようです。
 

大阪からはサブ・リーダーAoi山本Yuko小野が参加!さすが~~~(^^)v 他にメンバーのKeiko池田さんHitomi鵜飼さんHarue河野さん5名とのこと。いずれも一度は会ったことがあるメンバーだった。みんな高校生。


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「オズモンズ・コンサート・ツアー」(巻末画像に当時の案内)
主催 A.M.P、 後援 日本旅行
1974年7月21日~7月28日 8日間
お一人 258000円
募集30名 5月31日申込締め切り。


7月21日 

昼 東京発 同日朝 サンフランシスコ着。

午後 ラスベガス着 

夜  オズモンズ・ディナーショー

22日 

午後 オズモンズとの交換パーティ 

夜  オズモンズ・ディナーショー
23日 

ラスベガス発 昼 ロサンゼルス着 市内観光
24日 

ディズニーランド(終日)
25日 

ロサンゼルス発 昼 ホノルル着 市内観光
26日 

自由行動
27日 

ホノルル発 

28日 

東京着

※いま見直すと、豪華ツアーですね。ラスベガスのホテルでオズモンズのディナー・ショーが2回。その合間にパーティ(今でいうファンミーティング)。その後は、ディズニー・ランド1日、ハワイ1日まるまる自由行動。これで約25万円は格安ですよね。今なら50万円はするのでは?

※エッ! 7月21日~28日・・・? 8月1日「第8回フィルムコンサート&ミーティング」(森の宮青少年会館小ホール」開催直前の1週間、サブ・リーダーのAoi山本とYuko小野が優雅な海外旅行・・・。準備は誰が? 僕はこのことで頭がいっぱいでした(+_+)

~~~


5月24日(金)初代ヘルパーKumi清水と夕方4時に大阪梅田の繁華街で久しぶりに会って雑談。同じく初代ヘルパーのKei奥秋が梅田のマクドナルドに務めているとのことで、二人で会いに行く。keiは主任か何か役付きになっていて、二人とも高校卒業、立派な社会人になっていた。

6月8日(土)大阪梅田の新梅田食堂街にあるレストラン「カーネーション」で夕方4時にAoiとOnoに会う。Aoiにオルゴール、Onoにオーデコロンをプレゼント。これが何のプレゼントか日記に書いていないので分からないし、記憶に残っていない。解散騒動のお詫びか、戻ってくれたお礼か・・・? 

 

どちらにしろ当時の僕としては高額な買い物だった(^^;) 女性にプレゼントしたのはこれが初めてのような気がする。なにしろ高校は男子校、大学は8割が男子、薬学部に女子が少しいた程度でした(世も変わり、マンモス母校、いま半分が女子になっています)。

カーネーション~大阪梅田、JR大阪駅のガード下のレストランで、現在は「自由亭新梅田」として同じ場所、同じ広さで営業中です。当時、ヘルパーとランチを兼ねての打ち合わせによく使ってました。懐かしい~。

6月16日(日)午前10時、京都の準ヘルパーEtuko山本Junko芝原と打ち合わせのため大阪駅構内の喫茶店で会う。12月「京都ミーティング」開催の打ち合わせ。

僕は近畿リーダーになった1970年6月に3つの事を実現させようと思った。①独立採算制②大阪のみならず神戸・京都・奈良で「フィルムコンサート&ミーティング」開催③大阪支部設置。Mimiさんとこの3月初めてお会いし4年越しの①は希望が叶った。次は②の実現。丁度タイミングよく大阪・神戸・京都・奈良に各2名準ヘルパーを任命したので、さっそく行動を起こした。

 

この、Etuko山本、Junko芝原がこの後、個人的な事で助けてくれたお話は次回に・・・。

つづく~~

 

★ラスベガスで大活躍中のオズモンズ。

当時、部屋に飾っていたポスターです。

 

 

 

★オズモンズ・コンサート・ツアーの案内

 

★1974年 ファンクラブ会報にツアーのことが掲載されました。