まずは電車について学んでいきましょう!
「電車とは?」
電車とは、電気を動力として自走する鉄道車両のことで、架線(電線)からパンタグラフとよばれる
集電装置で電気を取り、モーターや車内照明に電気を送る方式です。
また使用する条件の違いにより、近郊型・通勤型・急行型・特急型とあり、
電化(電気を取ること)方式も直流・交流と2種類あり、これを共に通過できる電車を交直流電車と
言います
なお蓄電池で駆動する、「蓄電池駆動電車」や「電気機関車」は含みません!
「電車の発達史」
世界初の電車ができたのは1879年にドイツのベルリンにて開催された、博覧会で電気機関車に人の乗った客車
を披露したのが最初と言われています。
この2年後の1881年に、やはりベルリンで世界初の電車運転が開始され、その後1883年にイギリスとフランスで、
1895年にはアメリカでも電車が開業しています。
一方日本では1890年に上野公園で第2回内国勧業博覧会にて電車の試乗会が行なわれました。
これは日本人が初めて乗った電車だったのです。
しかし、当時電気に関心が無かったため、当時の人々は「電気は危険だ!!」という理由で非難、結果許可がなかなかおりませんでした!
さてなぜ京都には電車ができたのでしょう?、
それは大きな電力会社の存在があったためで、これが京都電燈だったのです。
そして電気に関心があった京都だからこそ、許可が出たと思われます。
結果1895年に日本初の電車運転が京都市内で始まりました。
その2年後の1897年に名古屋で電車運転が始まり、1901年には甲武鉄道(こうぶ鉄道)が電車を採用し、のちに国鉄初の
電車となりました。
この電車も路面電車型で、小柄な車体でした!
その後国鉄内では、山手線・京浜東北線でも始まりました。
山手線の車両はやや大きくなり、進化させたような車両でした。
京浜東北線の電車は新たにパンタグラフを採用するなど、新しい試みが見られました。
しかし京浜東北線の電車運行開始当日に考えられないトラブルが起こりました!
「電車運行開業と初期での大トラブル」
1914年12月18日に来賓を招いて、開業式典が行なわれ、鉄道院(現JR)はのべ2345人に招待状を送り、
当初は大正天皇も来られるという計画だったのですが、即位したばかりなので大正天皇の招待は中止となりました。
そして10時30分に予定通り1番電車が到着、来賓を乗せた電車は東京駅を発車し横浜駅を目指します。
しかしここでトラブルが起こることも、誰1人知りませんでした。
「トラブル多発」
東京~品川間は元から電化が完了していて、何もトラブルは起きませんでしたが、新線区間にて架線トラブルが勃発すること
となります。
東京を出発した最初の電車おろか、その次もまたその次の電車も横浜駅に何時も待っても来ないという事例が発生!
早速関係者を向かわせたところ、1番電車は子安付近で、その次の電車は大森~蒲田間で架線をひっかけて運行不能と
なっていたのです。
結果横浜行きの1番電車が目的地に到着するのに、2時間を要しました!
結果翌日に鉄道院総裁は新聞で自分が書いた謝罪文を掲載されるという、おおはじをかくことになりました!
「原因」
原因はいろいろとありました!
1 試運転がおろそか、
2 曲線付近での架線の張り方に不備、
3 突貫工事により路盤の地固めが不十分で固まっていなかった
4 重い電車が走ったため、固まっていない部分が地盤沈下、
あまりにも早く電車を走らせたいという気持ちが大きかったのでしょうか、しかし準備は徹底的にしていただきたいものです。
原因としてまとめると、まず突貫工事であったため、路盤が固まっておらず地固めが不十分であり、しかも曲線部の架線の張り方に問題があり、また新しい試みの新形電車にも関わらず、試運転が不十分であり、突き固めの十分ではない新しい線路に重い電車が走ったため、線路が地盤沈下してしまい、結果沈下で、押し込まれた架線はパンタグラフの圧力で切ってしまったのです。
修復工事に4カ月を要し、運行再開は年明けの1915年4月10日になってからでした。
「電車の更なる発展」
大正時代になると電車は急速に進化していき、1923年の関東大震災では電車線にも大きな被害がでましたが、
翌年には駅の復旧や代替車を新製し、不足分を補ったりしたほか、座席をすべて追い払ったイスなし電車が走りだしました。
これは震災後の復興した際に定員不足のための処置で、すぐに元の姿と戻されました。
今で言うとラッシュアワーに対応した通勤型電車で、ロングシートがラッシュ時のみ折り畳む方式にしていることを意味します。
大正14年度にも京浜東北線の電化区間が拡大していき、昭和初期には17mの30系電車が誕生し、昭和9年に登場の40系では20mの立派な電車へと発展していきました。
また昭和12年には流線形電車52系が登場し、京都~神戸間を走りました
これは現在の新快速の原型の運行区間ともなっていました。
「戦争と電車」
1941年に太平洋戦争が始まり、電車も暗い影の中を走ることとなり、戦時中の1943年には戦時設計の63系電車
(通称 ろくさんがたでんしゃ)が登場、
この電車は、20mの車体に4つの扉を持つ、現在の通勤型の構造を採用した初めての電車で、新機軸を多数そろえていました。
窓は3段式で、座席シートは資材不足を補うため、木製が使われました。
1945年8月に終戦を迎えた日本は78%の電車が被災し、運行状態はマヒしていた際に役立ったのが、ろくさんがた電車
でした。
終戦後も製造が続けられ、計800両以上が1948年までに作られ、周りから「戦後復興の救世主」と呼ばれ、イチャイチャ
されており、話題を知った私鉄各社も63系を手に入れ、様々な形式を与えて使用されました。
「湘南電車と湘南型の登場」
1950年、東京~沼津間に湘南電車が登場し、初めて中距離運転が行なわれました。
車体はオレンジに緑のツートンで、デザイン的に斬新なものでした。
というのも、電車の色と言えば、当時では黒か茶色というダサい色でした。
その後改良が繰り返され、1958年まで製造されました。
そして翌1951年には70系が横須賀線に登場し、こちらも顔立ちは80系と似ていました。
「63系の運命を変える事故」
そんな63系を変える事故が起きます。
1951年に桜木町駅で火災事故を起こし、106人が死亡 93人が重軽傷を負うという大事故でした!
原因は架線工事での作業ミスで架線を切断してしまったこと、係員はただちに信号取り扱い所へ赤信号の手配したのに対し、
信号取り扱い所が「あの電車はまっすぐ行く!」と思い込んでしまい、本線へ続く線路にポイントを変えぬまま、青信号を継続したことでした。
電車は切られた架線の線路へと進んでしまい、切られた架線と絡みつき、あっという間に2両を焼くこととなりました。
結果これが63系の代名詞になってしまい、機能強化と車体改修のため、形式は73系となりました。
その後73系でも新たに新製された車両も加え、73系は63系改造も含めると延べ500両以上が作られました。
お次は後編です。