途絶えていた福知山~宮津間計画が1948年より、再開されます。
沿線の1市3町5村、北丹鉄道、丹後海陸交通、天橋立観光協会と福知山・宮津の商工会議所により、「宮津鉄道建設促進期成同盟会」が結成され、北丹鉄道の国鉄へ編入と宮津ー河守間国鉄新線建設運動が起こり、京都・大阪・兵庫県知事に了解を経て、1953年に鉄道敷設法別表予定路線に「宮守線」を追加しました。
目的は北丹鉄道とつなげることでした。
1957年4月調査線、1964年基本計画決定、1966年3月、宮守線工事実施計画が許可され、同年10月に着工となったのです。
1971年9月に最大難所である普甲トンネルが開通します、ところが北丹鉄道は、これまでに鉱山からの鉱物輸送と由良川の砂利輸送を行っていましたが、終戦とともに次々と中止されていき、貨物輸送量が激減してしまい、さらに沿線の過疎化とモータリゼーションの波を受けていました、しかし地元では廃止は望んでおらず、まずは1971年2月時点では営業休止となってしまいます。
だが結局のところは、復活することは二度となく、1974年会社解散となり廃業となってしまったのです。
「計画変更と建設中止、そして達成」
北丹鉄道廃止でメリットを失った宮守線、しかしまた宮守線の福知山延伸を求める運動が展開され、1975年に宮守線は「宮福線」福知山―宮津間が追加され、 1978年に基本計画が行われました。
しかし1980年12月、「日本国有鉄道経営再経営促進特別処置法」国鉄再建法により、輸送密度が低下するとされたことにより、その後の工事が中止されてしまったのです。
そこでどうしても鉄道で福知山―宮津間をつなげてほしいと望んでいた同盟会は新たに天田郡など11町村が加わり、これで1市数十の町村が同盟会に参加されたのです。
その後同会は第三セクター方式を選択し、1982年9月22日に「宮福鉄道」が設立され、国鉄再建法第14条の告示手続きと事業免許申し込みを行い、同年12月に許可が下り、続いて1983年1月に工事施行許可、3月より建設着工となったのです。1988年1月27日にレールが結ばれ、7月16日に開業を果たし、北丹鉄道廃線から実に14年が経っておりました。