1 「峰山線計画と開業」
宮津線は1917年に京都府知事が声を出し、舞鶴―宮津―峰山―豊岡間の敷設を目的とした測量が行われ、あわせて宮津ー福知山間、河守―山田間、神野ー城崎間などいくつかのルートで調査が行われ、これを京都府によって丹後鉄道線路調査報告書としてまとめられました。
さらに鉄道建設運動が丹後地区全町村を挙げるほどに発展すると、政府もようやく認めるところとなりました。
こうしてまずは舞鶴―峰山間が峰山線として建設されることとなり、1919年から工事に着手します、当初峰山線は舞鶴から真壁峠をトンネルで抜け、志高で由良川を渡り、由良川左岸に沿って由良に至る計画でした、しかしこの計画を知った由良川上流部の人々が水害のことを考えて猛反発を受けてしまい、1921年に鉄道省が調査の結果、はるか下流の丹後神崎ー丹後由良間に架橋位置を変更したのち、1924年4月に峰山線の舞鶴「現西舞鶴駅」―宮津間、翌年に丹後山田駅「現与謝野駅」まで、同年11月3日に峰山までつながり、この時に峰山線は「峰豊線」となるのです。
そして1926年12月25日に網野まで伸ばしました。
1927年3月に発生した丹後大震災では、峰豊線も被害が出ましたが、3月21日に復旧しています。
1929年には豊岡ー久美浜間、1932年に久美浜ー丹後神野「現小天橋駅」間、そして1933年8月に網野ー丹後神野間が開通し全線開業し、線名も「宮津線」となったのです。※甲山・丹後神崎駅は未開業。
かつて四所~西舞鶴間に昭和19年「1944」~昭和21年「1946」まで、高野信号所がありました。
2「地元資金で福知山―河守間鉄道開通とその後の苦難」
宮津と福知山ルートは1918年に地元有志が、「北丹軽便鉄道」を建設することとなりました、出資者は600名であったと言います。
しかし峰山線が志高・由良川左岸を通ることが分かったため、舞鶴市で峰山線に乗り入れるように変更して設計を進めることになります。
しかし峰山線が水害問題から白紙になり、峰山線の経由地が分からなくなり、結果的には福知山―河守間を1次区間、河守―由良間を2次区間と分け、1次区間は北丹鉄道として1923年9月22日に開業しましたが、2次区間は日露戦争後の経済不況で中止になりました。
しかし北丹鉄道河守どまりで不満を感じた、福知山・大江の有志たちは、北丹鉄道福知山―由良間の路線計画を変更し、河守からトンネルで大江山を抜け、宮津、さらに宮津港に至る鉄道を計画し、「宮津鉄道」を新たに設立し、1924年には「開業の上は北丹鉄道と合併すべし」という条件付きで敷設免許を経て、測量・設計を実施したものの、大江山を抜けるトンネル費用に必要な資金が調達できず、断念されました。
「絹鉄道の開業」
絹鉄道は主に絹織物を輸送するあるいはその地域を走る目的で作られた鉄道を意味します。
それが「加悦鉄道」です、加悦鉄道は当初地元名産品のたんごちりめんを京阪神地区へ運ぶことを主目的として開業、1926年12月開業したの5.7キロのミニ路線です、地元出資者823名とともに鉄道開業を望んでいました。
1926年に加悦ー丹後山田駅「現与謝野駅」間が開通します。
3か月後に丹後大震災が発生し大きな被害が出ますが、わずか6日で復旧しています。
1929年に三河内口駅を開業させ、1934年からバス事業を開始、さらに1939ねんに経営権が日本冶金工業に変わり、戦時中はニッケル鉱石輸送もしました。
戦後は鉱石輸送は縮小され、大江山鉱山が閉山となり、大江山製造所で輸入ニッケル「フェロニッケル」を輸送、そして地域の人々の交通機関として活躍しますが、経営難のため1985年に終止符を打ちました。
※バス事業は2009年まで存在「与謝野町~宮津市」まで。
※加悦SL広場は2020年まで存在。
続きは「福知山―宮津間再び計画スタートとさらなる壁」戦後編に続く。