昭和20年8月15日終戦、これを機に大江山でのニッケル鉱山採取は休止となり、加悦鉄道は5.7キロの地方ローカル線に元通りとなってしまい、従業員も戦前並みに低下してしまいました。

また大江山線や岩滝線が運行休止となり、大江山工場も休止となってしまいました。

 

終戦から4か月後の記録が残ってます、当時加悦機関区長をされていた、浜中秀秋さまがかいていたそうで。以下の通りです。

 

昭和21年1月24日現在 機関車は2・4・Ⅽ160・101・102・103号と1088号・1260・1261号機の9両で、

うち101・102・1088号は「大江山二テ休車中」 Ⅽ160と1260号は予備機、2号は「工場へ入場中」で、4号は「バネ手配中」で、103・1261号が働いています。

キハ101は「雨漏カ所アリ 代燃装置一部腐食 燃料ナキタメ付属車トシテ時々使用」とあり、客車はハ2・6・7・8号は改造中、フハ2号は「雨漏り」 ハブ3号は「屋根ヒサシ腐食」 ハ10号は「雨漏り」で、ハ20・21号が使用していたようで、

貨車はワブ20号は「休車」、ワ1とワブ1・2・3号が「使用中」、ト4・5は「チキ代用デ使用」、ト6は「修理中」で、ト3・7号が「使用中」、ト101~116とトム56・61~80も使えたようですが、このうちト51~55 57~60は「底板腐食」となっていて、思うように修理できなかったことがわかります。

終戦から半年も立っていない時期の状態を正確に伝える、大変貴重な資料です。

 

 

経営はたちまち赤字に転落し必要性を失った鉱土専用路線のレールを撤去し、これを売却していき、機関車は101・102・103号機に1260号を他社へ譲渡し、50両あった貨車も解体あるいは転売していったのでした。 機関車の譲渡先は以下の通りです。

 

101号 1948年に尺別鉄道へ

102号 1948年に芦別鉄道へ

103号 同年に芦別鉄道へ

1260号 1948年に昭和電工富山工場へ

 

1948年に大江山線の旅客運転が再開されて、桜内駅が開設されますが、結局わずかながらで終了してしまうのです。

このため桜内駅は完成することなく、未完成で終わりました。

しかし大江山線は廃線ではなく、加悦鉄道廃止まで休止扱いとなっていたのです。

 

 

このような中キハ101は代燃装置を外し、本来のガソリンカーで復活し運行効率向上をねらいました、

昭和25年に三河内口駅の使用再開し 昭和27年にバス事業の再開など様々な経営努力が見られました。

一方終戦後製錬停止中の岩滝精練所は自動車部品の生産を開始しますが、大江山鉱山再開の見通しが立たないため、社名を今の大江山製造所と改名します。

 

戦後5年が経過し朝鮮戦争を機に重要戦時物資が要求され、特にニッケル不足は深刻化したのです、そこでニューカレドニアから輸入ニッケル「フェロニッケル」を宮津港で陸揚げし、そこから製造所までをトラック輸送することとし、この設備を宮津町「現宮津市」が整備し、1952年に大江山製造所でフェロニッケルの生産を開始し、並行して岩滝線が再開されて、貨物輸送も再開の運びとなったのでした。

1953年、石油事情も好転してきたことにより、効率の良いディーゼル機関車への移行が世の中で話題となっていき、加悦鉄道も運行経費・牽引力・線路勾配・設備投資の結果、森製作所の10トン機関車が最適として1両を導入、DB201として1953年2月に竣工しています。 ←「DB201」1953年製造。

同社は蒸気機関車をディーゼル機関車に改造することを得意としていますが、同車は完全新品で作られ、主に旅客列車を引きました。

 

1956年、加悦鉄道に当時鉄道友の会世話役の鷹司平道氏が訪れ、2号機関車が我が国において並びに世界に由緒ある機関車であることを教示され、これを機に2号機関車を社宝として保存するはずでしたが、ボイラー水漏れのため休車せざるを得ないなり、静態保存となりました。  保存維持は加悦機関区の職員により行われていました。

その後加悦鉄道では、ディーゼル動車をたびたび導入しています。 以下の通りです。

 

キハ51 1962年3月に「舟木鉄道」より。 同年7月より使用

DC351 1967年 南部鉄道より日本冶金工業が譲り受け、 同年8月加悦鉄道は貸し出し扱い。

キハ083 1971年 国鉄釧路より 翌年2月より使用。

DD352 1974年 自社発注。

キハ1018 1980年12月 国鉄豊岡より 同年12月使用。

となっています。

SL運転はDC351の入線により4号機「1967年4月にて終了」 1261号機「1967年9月にて終了」を最後に使用を終了しました。

また客車による運転も1972年で運行を終了しました。

 

1974年にDD352を日本冶金工業が発注し、使用開始しています。

さらにDB201も1975年に終止符を打ち休車となり、キハ101も1980年には休車となるのでした。

 

1977年9月、加悦機関区の一部を活用し、加悦SL広場を開設しました。

展示車両は13両で、鉄道営業中もあって人気となり、加悦鉄道も鉄道グッズ類にも手を付けることとし、観光鉄道を目標として活動していました。

 

しかし加悦鉄道の経営はひどくなる一方で、郵便荷物輸送廃止「1980年」に貨物取扱・小荷物廃止「1984年」され、貨物営業も次第に効率の良いトラック輸送に変わり、赤字額が大きく膨らんでしまった結果、

1985年3月に運輸省「現国土交通省」あてに廃止届け出を出し、同年4月中旬に許可、同年4月30日を最後にさようなら運行され、翌日全線廃止となってしまいました。

鉄道事業は60年に終止符を打ったのです。

↑加悦鉄道最終日 「加悦鉄道保存会所蔵」

 

加悦鉄道用地を京都府に譲渡しサイクリングロードとなり、旧加悦SL広場と加悦駅舎を加悦町「現与謝野町」に寄贈しています。

 

同年12月加悦鉄道株式会社を加悦興産と社名変更されており、2011年に宮津港運と合併し宮津海陸運輸と改めて残った加悦SL広場の運営をされていましたが、人手不足・老朽化のため2020年に閉園となり、残るのは旧加悦鉄道加悦駅舎のみとなってしまいました。

 

あと残ったバス事業は後継会社加悦興産によって運行されていましたが、2009年に廃止されてます。

※加悦鉄道バスの運行区間は与謝野町や宮津市まで運行されていた。

 

終わり。