大正15年12月5日、加悦鉄道が開業しました。
丹後ちりめんを運ぶため地元の人たちの互いなる勇気持ってでのことでした。
加悦鉄道は「絹鉄道」きぬてつどうとも呼ばれてました。
概要は単線非電化路線、路線距離は5.7キロで、京都府与謝郡山田村「現与謝野町上山田」
の鉄道省峰山線「現京都丹後鉄道宮豊線」 丹後山田駅「現与謝野駅」から加悦村「現与謝野町加悦」までで、駅数は5駅で丹後山田・水戸谷・丹後四辻・丹後三河内「みごち」・加悦駅です。
加悦鉄道開通記念の絵葉書があるそうですが、これに「加悦鉄道を中心とせる交通網」とあり、加悦から出石を経て豊岡に至る路線が赤の点線で書いてあるそうですが、ここの一部を鉄道省計画路線として計画されましたが、結局敷設されることは二度とありませんでした。
大正15年12月25日に大正天皇が亡くなられ、元号は昭和となり、加悦鉄道は開業25日後に昭和時代に入ります。
そして開業3カ月後の3月7日、大事件が起こります。
丹後半島を震源とする、マグニチュード7.3の地震、後に「丹後大震災・奥丹後地震・北丹後震災」と伝えられる大地震が発生、その被害は以下の通りです。
イ 丹後四辻駅本屋焼失 貨物上屋倒壊 丹後三河内駅本屋並二貨物上屋倒壊。
ロ 線路ハ全線二至リテ陥没シ 軌条ハ全線二至リテ左右上下二曲シ 橋梁ノ石垣ハ全部崩壊シ 踏切道ハ陥没又ハ崩壊
ハ 電話線ハ全線二至リテ電柱桂傾斜シ電線 電話機焼失又破損
二 本社機関庫、丹後山田駅又水戸谷停留所の各建物ハ何レモ傾斜シ破損。
とありまして、他に従業員2名も亡くなられております。
しかし加悦鉄道の復旧は早く、6日後に全線復旧していたのです。
ただ人でが足らないので、岡山・鳥取・兵庫県から人材を確保して行われたと言われてます。
峰山線も21日に全線復旧。
震災後の1929年に、加悦鉄道の加悦~丹後三河内駅の間に三河内口を開設し、1934年からバス事業が始まりました。
1936年に開業10周年を記念しキハ101形ディーゼルカーを新製します。
同年には加悦1号を廃車解体し、3号を廃車売却しており、この2両の機関車は10年足らずで加悦から消えてしまいました。
その後大江山でニッケルが発見され、昭和14年に経営権が日本冶金工業に変わります。
そして加悦から大江山間の専用線ができ「1940年」ここを大江山線と言い、鉱山までの区間だったということです。
しかし当初所有していた機関車はなんと2両だけで、貨車も少なく不足気味で輸送を開始したのです。
そんな中日本は太平洋戦争に突入し、厳しい環境に早変わりしてしまうのでした。
岩滝線は1942年開業で、丹後山田から岩滝精練工場間を結び、これで鉱石輸送の一斉輸送が開始。
その後新たに2両「1088・Ⅽ160号機」が加わり、その後も101・102・103号「昭和17年から19年」に1260・1261号機「国鉄より日本冶金工業が購入」が入線し、最終的に9両が活躍していたそうです。
その後会社名は大江山ニッケル工業「となり、体制も大量生産となっていました。
従業員は150名だったようです。
その後当社が日本冶金工業と吸収合併します。
そして戦局は重大化、通学券の販売が制限されたり一般貨物も収入が悪化していき、ニッケルの輸送量は20万トンを突破!これが加悦鉄道がもっともかつやくしていた時期でした。
そんなフル稼働をしていた際、玉放送が流れ終戦を迎えます。
その3に続く。 「戦後の混乱期から立ち上がり、廃線まで。」