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あなたはすごくお腹を空かせているとしよう。
なぜか、手元には一切れのパンがある。
そこへ、通りすがりの人が。
「とてもお腹が減っているんです。どうか、そのパンを譲ってください・・・。」
あなたは、そのパンを譲りますか?
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きっと、良識のある人ならば、
「yes」
と答えるだろう。
学校や教育の場面でもそういう風に教わるだろう。
上の話はよくあるたとえ話だけど、僕は根本的に落とし穴があると思う。
ひとつは、
「自分が飢えの極限状態を想像できないこと。」
今の日本で、本当に飢えて死にかけた人なんて何人いるだろうか。
僕らは常に満腹だ。
だから、
「飢えていても他人が困っていたら恵んであげましょう」
なんて言葉は、幻想にしか過ぎない。
そこで僕はもっとリアリティのあるたとえ話を考えてみた。
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あなたはとてもお腹を空かしているとしよう。
ただ、手元には一切れのパンもない。
そこへ、通りすがりの人が。
「とてもお腹が減っているんです。どうか、あなたの腕を一本譲ってください・・・。」
あなたは、片腕を譲りますか?
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少々グロテスクな表現になってしまったが、自分を犠牲にして他人を助けるという意味では
これほど忠実な表現はない。
どうだろう?あなたは片腕を譲るだろうか?
「譲らない」という人もいれば「譲る」という人もいると思う。
僕はこの問いに関して答えを作るつもりもない。
僕が言いたいことは、
「自分に余裕がない状態で、他人を助けることは難しい」
ということだ。
他人を助けたいなら、
自分に余裕がなければいけない。
「一切れのパンも持たない人が、飢えた子どもを救えるだろうか?」
「サラ金地獄にハマっている人が、愛する人を幸せにできるだろうか?」
なかには例外もあり、自分を犠牲にしてでも他人を幸せにすることのできる人は
いると思うが、一般的な人はそうはいかない。
まずは自分を守ることが生物としての本能であり、偽りのない事実だからだ。
だったら、他人を救うには、他人を幸せにするにはどうすればいいか。
「自分が幸せであり、他人に構えるだけの余裕を持てばいい。」
「飢えた人を助けたいならば、パンを100個持っていればいい。」
「愛する人を幸せにしたいならば、幸せにできるだけの甲斐性を持てばいい。」
もちろん、ただ力を得るだけではだめだ。
パンを100個持っていても、それを飢えた他人に分け与えることのできる心が必要だ。
家族のために一生懸命働いても、家庭を顧みずに不幸にすることだってある。
ただ、その心さえ持ち続けることができるならば、やはり他人を、愛する者を幸せにするためには
それだけの力を得なくてはならないと思う。
僕は、将来愛する人や愛する子供を幸せにしたい。
「あなたと結婚して本当によかった」と、
「お父さんの子供に生まれてきて本当によかった」と
愛する人に感じてもらいたい。
そのために力を得よう。
そのためにがんばろう。
と、思う。