最近、よく思うことがあります。
心の囚われです。あの人が世間がと気にしすぎてしまっていますね。
自分の思いが強ければ、他人がどう言おうと関係ないといえるのですがね。中々そうも言えない

ネットって顔も見えないし、どんな人かもわからないのにすぐに信じちゃうんですよね。悪意ある人も多いのに💦

もう10年以上前になりますけどね。とある占い師のところに弟子入り?したんですけどね。そこではまともに教えてももらえずに、わからなかったら「聞きに来て」と言われました。聞きに行くと「質問がおかしい」「あんなもんは関係ない」師が進めた本なんですけどね。自分が知らないことは関係ないというんです。ほとんど知らないままに店舗に出ました。独学でほぼ学びましたよ
タロットも独学で学びました。またそれがよかったのか当たるんですね (笑)
そこに所属していた人みんなそうでしたよ
独立した人も霊感ないのに霊感占いと掲げて「霊の相談来たらどうするの?」「私がみてもらいたいわ。そんなん霊感ないのに無理」「適当に言う」えっーと思いました。
あとは家がゴミ屋敷だったり鬱病だったり家庭に問題がある人もおおかったですね。占い師なのに自分の家庭はめちゃくちゃなんですよ。すべての占い師さんがそうだとは言えませんけどね。
一年くらいで辞めました。いまでもその占いはあり、他の方も占い師として活躍しています。
ネットみていたら、当たるとか書いてあったりしてますけどね。信じる人は救われるですね
幸せそうな占い師を霊能力者でもあまりみたことがありません。穏やかに生きているとか本当に人のために修行している人こそ人を救える助言ができるのだと感じます

話がそれてしまいました。
写経をしているのですが、願意や右為と願分をかかないと習字としてしか扱われないという文言です。自分の心を鎮めたり経を唱えなたりする為もあるので、願がないと唱えてはいけないということに疑問をもちます
浮遊霊が寄ってくると書いてあるところや寺院でも願意のないものはと書いてあったりします。元々は、仏教は死者をともらう為のものでまありません。願がいがなくとも教えなので願いがなくていんです。無になりなさいという教えがあるのに欲を出して願意を促すのもおかしな話です
自分の修行のためでもあるのに、願意や右為がないと受けつけないというのは疑問です

ネットでもよく見かけますが、自身の見えるものがすべて正しいと思うこと
人間には脳や思考や幻想などがあります。
すべての邪気や霊を見ることは人間には無理でしょう。つい先日もこんな記事をみました。あるお寺で住職さまはご高齢になり力も衰退しているのでしょうか?邪気に覆われて私は入ることができなくなりました。両親はすんなり入ることができます。外でまっていると、空海さんが申し訳ないと言って出てこられたと書かれておりました。高野山では、空海さまがお出迎えしてくれるとか見えたという人もいらっしゃいます。今なお修行しているお大師さまが一人一人の前に現れるのは無理でしょう。人間には、こうなってほしい!こうであってほしいという願望が思念が見せることがあります。さきほど書きました方も、自分が汚れてしまい入ることができなくなったとは思わなかったのでしょう。力ある場所には入れないという人もいますが、自分は穢れていないから入れて当然なんだということがあり本来の自分の穢れに気づかず他人や土地のせいにしてしまう。私も常に自分の思考や見えるものを疑います。教えてくれる霊の存在さえ疑います。己が一番だと思わないから、もしかしたら知らぬ間にということがある、また見抜ける力が万全でないと知っているからです。人間の傲慢さと自分に都合がいい解釈は捨てても中々すてられませんね。

みなさんは、何を信じますか?
自分を常に見つめていますか?
それは正しいと決めつけていませんか?
正しいも正しくないも人間には決めれないことなんです。

豚や牛は殺して食べても、イルカや犬はダメ
これもおかしいのですよ。どれも人間のエゴですね。
正しいとか正しくないとかでなく、常に自分を見つめてほしいなと思います

合掌