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長くなってしまうので、後半に分けました。

が、難しい感じに変わりなはくあせる

お付き合い下さってありがとうございます。

ほんとにそう思ってます🙇‍♀️🙇‍♂️🙇‍♂️

石川先生の著書のご紹介を少しだけ。続きです。

 

②信じたものは救われるのか

当時十字軍など宗教戦争が勃発した

神を信じれば砲弾が避けてくれるに違いない・・

そう信じて戦火へ向かった人々

しかし、神を信じていていも災厄を逃れられないことがある・・

神を信じているだけでは、砲弾から守られることにはならない。

もし、神のお陰でと言う人が居たとしたら

それはたまたま助かった人が語ったにすぎない。

 

これは砲弾じゃないにしても、こういうものを信じていると

日常生活で「守ってもらえる」という発言をしている人が多いと思います。

守ってもらう、と言えなくなった時、つまりその逆は

やめたら怖い、という脅しのようなもの。

神とは果たしてそのような契約の関係なのでしょうか?

(これは私の主観です、すみません)

 

 

「神は悲惨な出来事を防いではくれないが、

 それを乗り越えるための

 勇気や忍耐力は与えてくれる」というもの。

 

 

③祈りとはお願い事ではない。

「要求」の行為ではなく信頼の「表現」であるべきものだ。

なので、この本だったか忘れましたが

「〇〇してください」ではなく

「〇〇できるよう、頑張る力や勇気を与えて下さい。」

と言う祈りかたをしていますよね、

「〇〇をやりぬく力を我に与え給え」のようなものであって

「お金持ちにして下さい」右差し

「人の役に立つために、働きます。どうか仕事が成功しますように。」

「彼と結婚させて下さい」右差し

彼に相応しい女性になる努力する自分になれるよう

自分を磨くことを頑張るので力を下さい」 とか

「あ、違ってたのね!」という最近の人が多いです、

よく考えたら、願いが欲に直球すぎ

 

④幸福になるために神を信じるのか?

結論は否。その中で、例でお二人紹介されていたのが

まず中学校教師をしていた星野富弘さん。

 

体育の教師をしていた星野さんは授業中体操の手本を見せようと

演技をし、誤って頭部から転倒し頸椎を損傷してしまいます。

こうした事故の場合、呼吸ができなくなり

窒息死してしまうこともあるそうなのですが

彼の場合は腹式呼吸ができたため、一命を取り留めました。

その後、首から下が麻痺して動かず、寝たきりの状態に。

まだ24歳でした。その後も状態が危なかったため

9年も手術を繰り返したそうです。その時

それこそ、年代も事情も様々な患者と話す事になる。

また、食事すら自力で取ることもできない彼のために

介護をしてくれる母に悪態をつき、

産んでくれなければ良かったと暴言を吐く。

最後に気がついたのは、

それでも変わらず、自分を支え続けてくれる母の姿

これが母というものなのだと気がついたそうです。

彼は口に筆を咥えて絵を描いたことで有名ですが

そのペンペン草の絵に添えられた詩がこれです。

(この部分をどうしても紹介したかったです、どうぞお読み下さい。)

 

神様がたった一度だけ

 この腕を動かしてくださるとしたら

 私は母の肩をたたかせてもらおう

 風に揺れるペンペン草の実を見ていたら

 そんな日が本当に

 来るような 

 気がした」

続きます。

「手と足が不自由になって歩けなくなりました

 土を掘ることも スキーをすることもできなくなりました

 でも、神様ありがとう

 あなたが持たせてくれた 

 たった10グラムの筆ですが

 私はそれで花を咲かせたり 

 雪を降らせたりすることができるのです

 神様ほんとうにありがとう」

彼は言います。

体に障害があることは不自由ではあるけれど不幸ではない。

 

「氷点」を書かれた作家 三浦綾子さん

キリスト教作家といえば遠藤周作さんの「沈黙」や「深い河」が有名ですが

彼女のデビュー作はキリストの「原罪」をテーマとした作品。

同じくある持病に倒れ、闘病をしながら書かれた作品の数々。

 

その三浦さんの言葉です

「9つまで満ち足りていて、10のうち一つだけしか不満がない時でさえ、

人間はまずその不満を真っ先に口から出し、文句を言い続けるものなのだ。

自分を顧みてつくづくそう思う。

なぜ私たちは不満を後回しにし、感謝すべきことを言わないのだろう。」

三浦の言葉

 

このお二人の姿から学ぶのは

幸せというものは

その人がその人生をどのように受け止めているのか

ということに他ならないのかもしれません。

 

決して周りから見た評価ではないのだ。

究極は、どんなことになったとしても感謝を感じることができる

その心が、何より自由で、何より強い。そう思います。

 

その他・・・

 

⑤同じ神を信じていれば仲良くできるのか?

 

⑥聖職者に人格は備わっているのか?

 

等々話題が尽きず・・こんなもんじゃない情報量泣

大変 多面的なので、後半になればなるほど 

んん???ってなってずれて感じてしまい

自分は追いかけられませんでしたあせるあせる 

結局は、タイトルの宗教を信じるとは?を自分で掴むことでしょうか?

※一部私の主観が沢山入ってます、作者の先生、すみません!

昨今のニュースでも目にする宗教に絡む問題に

心を痛めている人も多く

仲良くならないかな、といつも思うのですが

複雑!沢山の人の価値観や思いが交錯するし。

仏教だってナントカ宗、何派って違いますものね。

 

 

同じ山の高みを目指す、同志とは思えないのだろうか?

たとえ、アプローチの方法が違っていたとしても

いずれ、頂上で出会うのです。

どんなに時間がかかっても、周り道をしても。

先に着いたから偉いとか、全く関係ないではないでしょうか。

あんな修行は無駄、やり方が間違ってるとか

やる意味がない、などと一言でも

口にして欲しくないし、言っては駄目。

批判や否定、まして馬鹿にする権利などない。

なぜ放っておけないのだろう・・・

 

これは空を楽しむための窓

天井をくり抜き 空を堪能するためだけの作品で

晴天、曇天、雨。空が見せるさまざまな色や光が感じられます。

こちらの明るさによっても見え方が違う。

そうなんです、こちらの部屋の灯りは同じでも

今度は外の明るさで見える空の色や表情が違う作品「光の館」

(新潟 大地の芸術祭)

 

自然にある雲は夕方、光の向きによって極彩色に変化する

でも一瞬で刻々と変わる。

花も全て、光の当て方によって見え方が変化するように

全ての事象はこちらの見方次第で どんなふうにも映る。

 

だから 人からの評価を悪戯に気にしすぎないのも

メンタルを健全に保つことに大事なことかもしれません。

 

信じる言葉を通して、少し思考するきっかけになれば

 

最後までお読み下さってありがとうございます。

 

BWsの関係の方へ。近々何かあるのですね?

気にして今日は合わせてみましたよひっさびさに。

あまりに可愛らしい会話がありますね。聞いちゃった😁

もう少しまとめてみます。以上です。それでは。