東海釣りガイド 最終回 | 大島 愛彦 's ホームページ

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愛知県岩倉市在住の魚釣りが趣味のお父さんです。 魚釣りだけでなく、釣り雑誌の連載や、ボート釣りの書籍を執筆しています。ちなみに、Google上の職業は「作家」です。

東海釣りガイド2023年6月号で、26年書き続けた東海釣りガイドの執筆・連載をフィナーレとしました。

東海釣りガイド、編集部並びに読者のみなさまに感謝を込めて、最終回の全文を紹介します。

 今月で東海釣りガイドの連載を終えます。

 子供の頃から釣りが好きで、近所の川や池、父親に連れられて海にもよく行きました。

 26年前、父親が静岡市内に単身赴任になり、引っ越しの手伝いを兼ねてサオを持って行きました。地元の釣り雑誌を見ると、海岸からサビキ仕掛けを投げてカンパチやワカナゴ(ブリの幼魚)が釣れると。こんな話は愛知県では聞いたことがありません。本当に釣れるのか?翌朝、仕掛けとアミエビブロックを途中の店で買い足して、三保海岸で投げサビキ釣りにチャレンジ。大きなウキが〝ズボッ〟と水中に吸い込まれ〝グングン〟と引きが伝わってきます。

 釣りにハマった瞬間でした。静岡は遠いのに毎週のように通い、父親の単身赴任が終わると知多半島、三重県、福井県といろんな所へ釣りに行きました。

 この頃にホームページを開設しました。当時はネットによる情報発信は先駆的で、東海地方のランキングで1、2を競うほどの人気ページでした。釣って、記事を書いて、料理して食べて、行き帰りのドライブも新鮮で楽しいものでした。

 東海釣りガイドは父親も読んでいた大島家の愛読書で、1通のメールがきっかけで編集部の人と一緒に釣りに行くことになりました。狙った獲物は釣れませんでしたが、夜ご飯を一緒に食べているときに「東海釣りガイドで記事を書いてみませんか?」と誘われました。

 はじめは単発記事でしたが、東海釣りガイドで記事を書けることが嬉しかった。当時はキャラの濃い連載執筆者と編集部が魅力あふれる誌面を構成しており、毎月、東海釣りガイドを読むのが楽しみでした。編集後記まで、編集部の人たちの心の声が聞けるのは面白い。

 5年くらい依頼記事を書きました。私も連載執筆陣と肩を並べて連載を持ちたい。編集部に願い出て、念願の連載を手にしました。

〝ファミリーフィッシングの決定版!気まぐれ釣行記〟。タイトルは私のホームページから取り、まだ子供たちが小さかったので一緒に釣りに行きました。春から秋はネタに困りませんでしたが、問題は冬です。釣れなければ記事は書けません。岸からちょっと沖へ出れば釣れるのではないかと、手漕ぎのゴムボートを買いました。

 私は元々乗り物酔いしやすい体質で、ボートに乗るときは必ず酔い止め薬を飲んでいました。吐き気と眠気と戦いながら顔をビンタして釣りをする。そんなとき、編集部から提案がありました。

「ボート釣りの連載に変更しませんか?」

 これがボート釣りとの出会いでした。当時はボート釣りをする人は少ないとは言え、ボートを買ったばかりの私に連載が書けるのか。編集部から〝手前船頭周遊録〟という、ひねった連載タイトルをもらい、弟と2人でがむしゃらに釣りに行きました。機動力が足りない、2馬力船外機を買おう。船外機を取り付けられるFRPボート、1人でも釣りに行けるように軽いゴムボート。車にはキャリアを取り付けて、今思えばボートにいくらお金を使っただろう。

 この勢いで2009年には著書〝ボートフィッシングフィールドガイド東海版〟122ページを書き上げ、発売されました。書店や釣具店で平積みになっている光景は今でも忘れられません。サインを求められることも多く、サインもしました。名前と一言書くだけですが、有名人になったようで嬉しかったです。

 この頃が私の魚釣りの絶頂期だったように思います。本を出すまで12年。本を出してから14年。年を取りました。26年も書き続けていると毎月、記事を書くのはルーチンワーク。先月はあそこでアジを釣ったから、今月はここでキスを釣ろう。自分の中で記事をイメージして、勢いがあるからイメージ通りに釣れる。粗々で記事を書いて、印刷した原稿を喫茶店などで味付けをする。ここはもっと憎たらしい表現にしよう。もっと素直に表現できないか。私は東海釣りガイドに文章の書き方を教えてもらいました。発想力、文章作成能力。クセの強い文章になったのは、クセの強い先輩執筆陣の文章を読み続けたからでしょう。

 私は写真を多用しました。このページには何が書いてあるのか、写真の方がイメージしやすいからです。写真を撮るためには釣らなければなりません。釣りに行っているのか、写真を撮りに行っているのか。後半はネタ探しの旅でした。

 ネタが尽きました。若い頃のような情熱も、体力も低下しました。私がいつまでも居座っていてはいけない。次の世代にバトンタッチすることは、東海釣りガイドのためにも良いことです。

 悔やまれるのは後継者を探せなかったことです。釣りだけに目を奪われること無く、ルールとマナーを守り、安全第一で、ときには自分が批判されても読者に注意を呼びかけられる人。

 魚釣り講座の講師も務めました。2年くらいやったでしょうか。〝魚釣りの個展〟というイベントも開催し、新聞でも何回か紹介されました。テレビやラジオにも出演しました。いろんな人と出会い、一緒に釣りに行きました。

 ネットでは誹謗中傷の被害にあい、一時はネットを辞めました。人には〝有名税〟と言われましたが、気分のいいものではありません。今はSNSもやっていませんが、ネットでは魚釣りのことは書きませんでした。東海釣りガイドより先に情報が出てしまっては記事の新鮮さが損なわれるからです。これは26年、記事を書き続けてきた私のプライドです。

 今はネットの時代になりました。本や雑誌が魅力的な情報媒体であるためには、執筆者に魅力がなければなりません。そのためには情熱と体力が必要です。

 我こそは東海釣りガイドを光り輝かせることができる。俺の方が大島より面白い。そんな人の登場を心から願っています。そこのアナタ、やってみませんか?私の愛した東海釣りガイドで記事を書いてみませんか?

 最後くらいは写真も小見出しも無しで、文章だけで書き終えたい。

 本を出した後、刺激を求めていろんなことをやってみました。甲冑を買って地域のボランティア活動を始めたり、剣道、少林寺拳法、サックス、ギター。

 すべてが上手くいったわけではありません。やりたいと思ったらまずやってみることです。グズグズ考えるより、アクションを起こすことが大切。やってダメなら辞めればいいのです。

 若い頃は釣りしかしなかったのに、いつの間にか多趣味なオッサンになっていました。

 将来は何を目指そうかな。タレントかな。まだ人生は長い。自分が望めば何にでもなれるはずです。

 東海釣りガイドに育ててもらった26年。私の青春そのものでした。26年も使ってくれた編集部には頭が上がりません。

 26年、ありがとう。釣りこそ我が人生でした。昔の話をするようでは老いた証拠ですね。

 さらば、読者のみなさま。

 東海釣りガイドよ、永遠なれ。