5月も、はや中旬ですね霧

 

新緑の季節は、

田んぼの土や草の匂いが恋しくなります。

 

 

さて今回紹介する朝潮は、188cm、135kg。

 

 

眉の太いスタンプの辺りです。モグラ

今の力士で近いのは、九重部屋の千代翔馬、千代の海らでしょうか。

千代翔馬は、スリムな印象ですが。

 

 

【第46代横綱 朝潮太郎(あさしお・たろう)】

 

ダルマ生い立ち

 

昭和4年11月13日、兵庫県神戸市生まれ、鹿児島県大島郡徳之島町育ち。

徳之島は朝潮の父の故郷で、相撲も盛んな土地柄です。

相撲大好き芸人キンボシの西田さんも徳之島出身。

幼い頃から地元の相撲大会などで活躍していた朝潮は、

角界入りを目指し、明治大学相撲部の主将だった神戸の叔父を頼り、

明治大学相撲部出身の水野幸一さんの元で稽古を行います。

(水野さんは、明大レスリング部に相撲技を導入し、安定した重量級選手を育成した人です。)

 

そして昭和23年18歳の春、高砂部屋に入門。

憧れの初土俵となった同年10月、故郷の奄美はまだ米軍の占領下にあったため、番付には神戸市出身と書かれたそうです。

 

朝潮は、たちまち番付を駆け上がり、新十両は14勝1敗で優勝し、1場所で通過。

26年1月、初土俵から8場所目という異例のスピードで新入幕。

幕内5場所目に、高砂部屋伝統の四股名である「朝潮」に改名しました。

 

 

ダルマ朝潮の強さ

 

やしの木南の島からやってきた昇り龍恐竜くんと言われた朝潮の強さは、人並み外れたパワーにありました。

右上手を引き、左からのはず押しなど、一旦型にはまれば、栃錦若乃花も一蹴。

重心が低く、下から押し上げると、相手はたちまち浮き上がってしまいます。

 

元関脇出羽錦は、「朝潮の手に掴まると、されるがままになるしかなかった。皆そうだった。」とその強さを語っていました。特に小兵力士をさばくのがうまく、「鶏を小屋に追い込むようだ」とも言われたそうですヒヨコ鳥

 

 

ダルマ胸毛と太い眉で人気

 

土俵に上がった朝潮を、

「国宝仁王像と形容したい見事な巨体です!」とアナウンサーが実況するほどの、

いかつい身体。胸毛に太い眉、それにもみあげも印象的な大型横綱でした。

 

同じ部屋で稽古をした元小結富士錦は、

「朝潮の胸は、壁に当たっているように堅かった。朝潮の胸毛で額を切ったこともある。」

と話しています。びっくり

 

胸毛と太い眉で一躍人気者となり、東宝映画に出演したり、週刊少年マガジン創刊号の表紙を飾ったりもしました。

 

 

ダルマ大阪太郎
 

朝潮が最初に頭角を現したのは、昭和31年春でしたお団子

若乃花、若羽黒との三つ巴の優勝決定戦で、関脇朝潮が初優勝。殊勲賞も獲得。

優勝するとは思っておらず、紋付袴を用意していなかったため、締め込み姿での裸の優勝パレードとなったそうです。

 

2回目の優勝は、一年後の春、またも大阪でした。お団子

そして、場所後に大関昇進。お団子

 

この頃から主にマスコミで「大阪太郎」と呼ばれるようになったそうです。

綱取りの舞台も大阪でした。

昭和34年春、賜杯は逃したものの、優勝した栃錦に唯一黒星をつけるなど好成績が評価され、場所後に横綱に推挙されました。

 

その後は持病の脊椎分離症に悩まされ、およそ2年間不振に苦しみましたが、

36年春、14場所ぶり、横綱になって初めての優勝。お団子

ゲンのいい大阪での復活でした。

 

優勝5回のうち4回が大阪。

大相撲で始まると言われる浪速の春を、小兵の栃若とはまた違う魅力で盛り上げました。

 

 

ダルマ5代高砂親方として

 

32歳で引退し、年寄振分を襲名。一時独立した後、高砂部屋に戻り、46年に師匠の高砂から部屋を継承しました。

先代から引き継いだ大関前の山、関脇富士櫻、高見山のほか、

大関朝潮(現高砂親方)、小錦(現人気タレント)、関脇水戸泉(現錦戸親方)らを育て、理事として協会運営にも尽力しました。

 

高砂部屋の玄関には、歴代高砂親方の写真が飾ってあり、5代高砂の朝潮の写真も。

現在の高砂部屋は、平成14年2月、元大関朝潮(4代)が高砂に名跡変更し、高砂部屋と若松部屋を合併したものです。

 

十両をわずか1場所で通過した朝潮のように、新大関朝乃山も、新十両新入幕をワンチャンスで掴んでいます。

高砂部屋から次の横綱が生まれるのもそう遠くないと、私は思っていますビックリマーク

 

 

パンダ朝潮がいた時代虹

 

昭和32年、国会で、相撲茶屋のあり方が問題となり紛糾。

当時の武蔵川理事長が、長い歴史の中で茶屋と相撲界が支え合って来ていることを伝え、

改善改革を約束。相撲茶屋の危機を救ったと言われています。

 

そして、時津風新理事長のもと様々な改革が実行されました。

その一つに、茶屋制度の廃止があります。

全20軒の茶屋は1番~20番に割り振られ、全体を国技館サービス株式会社が統括することになったのは、この時代なのです。

その後いろいろあって、現在は屋号も表記されていますが、いろいろが長くなるので、またの機会に女の子

 

 

ダルマまとめ

いつか、高砂部屋の稽古見学に行きたいです。

そして、玄関の朝潮の写真を拝みたいです。

 

 

昨日(12日)は、悲しいニュースが飛び込んできました。

高田川部屋の勝武士さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。

 

 

ベル参考文献

 

横綱&大関大艦(ベースボール・マガジン社)

歴史ポケットスポーツ新聞相撲(大空ポケット新書)

大相撲大全集~昭和の名力士~参(NHKDVD)

大相撲 あの力士、あの一番(荒井太郎 ソニー・マガジンズ新書)

相撲大事典(現代書館)

もういちど読む山川日本史(山川出版社)

稽古場物語(佐々木一郎 ベースボール・マガジン社)

相撲茶屋のおかみさん(横野レイコ 現代書館)