本来だと夏場所2日目が開催される予定だった、5月11日(月)でやんす。
今回紹介する若乃花について、
尊敬する杉山邦博アナウンサーがかつて講演で、
いろいろな話を聞かせてくださいました。
ラジオの実況で、
「土俵の鬼出ました!呼び戻し!通称仏壇返し!
これでどっちが勝ったかお分かりでしょう。」
と伝えたそうです。
あまりに杉山さんの喋りに力がこもっていたので、
思わずその文言をメモしていたのですが、
本当に恥ずかしいことに当時よく分かっていなくて....
どっちが勝ったの?
でも分かりました。
相撲好きな人は分かったかな。
答えは、今日のブログの中に
あと、今回もまた長くなってしまいました(m´・ω・`)m
さて若乃花は、179cm、105kg。
金髪男スタンプのところです。
今の時代の力士で近いのは、我ら鳥取のスター石浦関でしょうか。✨
44代横綱栃錦もそうですが、
意外にも小兵横綱が多い!
【第45代横綱 若乃花幹士(わかのはな・かんじ)】
生い立ち
昭和3年3月16日、青森県弘前市出身。
10人兄弟の長男で、22歳下の末っ子は、元大関貴ノ花(若貴兄弟の父)。
実家のリンゴ農家が、昭和9年の室戸台風で全滅し、家族で北海道室蘭市に移住。
一家を支えるため、小学校を卒業すると、船舶の貨物の積み下ろしなどを行う沖仲士として働きました。
終戦の翌年、大相撲巡業で二所ノ関部屋一行が室蘭を訪れます。
力士らと相撲を取ると次々勝つ若乃花を、のちの師匠となる大関大ノ海がスカウト。
働き手がいなくなると困るため、父は猛反対しましたが、
家族を少しでも楽にしたいと、3年で関取になることを約束し、入門を決断。
初土俵は18歳、昭和21年11月。
ちなみにこの時、両国国技館は進駐軍に取られて、『メモリアル・ホール』と名前が変わっていました。お客さんも少なく、若乃花は、「自分が強くなって、国技館がお客さんで満員になるような時代にしたい」と思ったそうです。
猛稽古
若乃花は、周囲を圧倒する猛稽古でスピード出世を遂げます。
約束の3年より半年早く関取になり、十両2場所で新入幕。
新入幕の場所では、敢闘賞。
大型力士にも真っ向から立ち向かい、
がっぷりになって投げ飛ばしたり、大技でひっくり返したり。
沖仲士時代の重労働で鍛えられた強靭な足腰で、
俵に足がかかってからも粘り、反撃に転じます。
勝負への限りなき執念、相手を飲む気迫。
小兵で切れのある鋭い技。
さながら「狼」と呼ばれたそうです。
「千代の富士のウルフより先だったんだよ!」と本人が笑っていました。
スピード出世の裏には、部屋の先輩関取の存在がありました。
二所ノ関部屋には、横綱大鵬を育てた佐賀ノ花、神風、力道山、琴錦、
師匠大ノ海、十勝岩など、関取が10人以上いて、稽古をつけてもらっていました。
中でも、最も厳しかったのが力道山。
よく2人で2時間ぶっ通しの稽古をしたそうです。
若乃花は、稽古が好きだったと話します。
とにかく長い時間やっていた、とも。
今の力士が一日たった30番しかとらないのが歯がゆい、と苦言を呈していました。
土俵の鬼
昭和27年、元大ノ海で師匠の芝田山親方の独立に伴い、
若乃花は芝田山部屋へ移籍しました。
阿佐ヶ谷にある日大相撲部の合宿所を間借りしてのスタートでした。
(芝田山が、のちに10代花籠と名跡交換したため、部屋名も花籠部屋に変わりました。)
関取は若乃花一人でしたが、幕下力士を相手に、俵に足が乗ったところからぶつからせるなど、工夫を凝らした猛稽古で、関脇の座を守り続けました。
そして迎えた横綱千代の山戦。
相撲史上に残る死闘と言われた一番です。
合計17分15秒にも及ぶ大相撲の末、引き分けとなりました。その内容が評価され、場所後に大関昇進。昭和30年27歳の時です。
(ちなみに....
この場所は、鏡里(42代横綱)の項でも書いた本場所ナイター興行でした。
しかしこの試みは、地方新聞では勝負結果が翌日の朝刊に間に合わず、力士の体調管理も難しかったため、一場所限りで廃止となりました。)
31年5月には初優勝。初めて青梅街道を通って阿佐ヶ谷に向かったパレードは、
大勢のファンが沿道に詰めかけ大騒動に。
いよいよ綱取りへと盛り上がった同年秋場所前には、3歳の愛息の死。
32年に、若ノ花から若乃花に改名。
そして33年1月、14日目。
2度の水入り、1番後取り直しの大熱戦の末に、ライバル栃錦を破り、2度目の優勝。
横綱昇進となりました。
さまざまな苦難があっても強い精神力で相撲に集中する姿を「土俵の鬼」と人々は言いました。
千代の山、吉葉山、栃錦、そして若乃花。4横綱時代到来です。
目標は栃錦
若乃花が常に目標としていたのは、栃錦(44代横綱)でした。
二所ノ関部屋時代、先輩関取6人のうち、6人ともが栃錦に負けていました。
小さな体で本当に強い人だと、栃錦を強烈に意識したといいます。
26年夏、念願の初顔合わせでは若乃花が勝ちました。
若乃花も横綱になってからは、
毎場所のように千秋楽で優勝をかけて2人は激突。
「栃若時代」と言われる相撲黄金期を築き、多くのファンを熱狂させました。
栃錦は若乃花のことを、
「あんなに細い脚なのに土俵際で残るんだ。膝に緩みがあって、緩みを伸ばさないと倒せないから、緩みで残るあの膝は強かった。」と語っています。
若乃花は、栃関という目標の人がいたから、
横綱という地位に辿り着けたと話していました。
仏壇返し
若乃花といえば、「仏壇返し」です。
これは決まり手としては「呼び戻し」ですが、
右四つになって左上手を取り、
上手投げを打つふりをして、
相手の腰が引いたときに右から掬って、相手の体を裏返しにする大技です。
また、「二枚蹴り」も得意でした。
四つに組み、相手を吊るふりをして投げます。
蹴り、ひねり、出し投げの合わせ技で難易度が高い技です。
本人は、「投げるとスカーッとするんだ」と話していました。
相撲の常識を超えた爽快な取り口は「異能力士」とも称され、
絶大な人気を集めました。
栃錦引退後は一人横綱として土俵を務め、
柏鵬時代の幕開けを見届けて土俵を去りました。
名将二子山親方として
16年の現役生活を終えた後、二子山部屋を興し、弟の大関貴ノ花、2代若乃花(56代横綱)、隆の里(59代横綱)、大関若嶋津らを育ててました。
63年2月には、栃錦の春日野親方から協会理事長を受け継ぎます。
平成4年1月、甥の貴花田(65代横綱貴乃花)が初優勝し、賜盃授与を花道に勇退。
そして二子山から藤島に名跡交換し、停年。
若乃花語録
若乃花がインタビューで答える言葉に、名言のようなフレーズが多かったので書き出してみました。
「満月はいつまでも満ちてはいない。満ちれば欠ける。」
「土俵とは人生です。力士にとってのロマンですよ。
土俵は15尺、15尺だけで人生を歩んできているんだから。土俵は宝物ですよ。」
「相撲は闘志、これしかない。なにくそーという闘志、これしかない。」
まとめ
アナウンサーの相撲実況の言葉は、
真面目に言っているのに妙に面白いことが時々あります。
半世紀前にもありました。
歴史的な一番を前に、
「勇気りんりんと登場いたしました!若乃花、栃錦両力士!」
勇気凛々は、子どもの頃見ていたアニメの影響か、
子どもっぽいイメージがありましたが、
改めていい言葉、粋な表現だなと思いました。
また、若乃花が力を入れたときに見える割れた背筋がすごいです。
体重やわずかな稽古では一流にはなれないと感じました。
参考文献
横綱&大関大艦(ベースボール・マガジン社)
歴史ポケットスポーツ新聞相撲(大空ポケット新書)
大相撲大全集~昭和の名力士~参(NHKDVD)
大相撲 あの力士、あの一番(荒井太郎 ソニー・マガジンズ新書)
相撲大事典(現代書館)
もういちど読む山川日本史(山川出版社)
朝日新聞デジタル
横綱(武田葉月 講談社文庫)