暦のゴールデンウィークも最終日ですね。ブーケ2ペンギン

 

私はコンビニのアルバイトがあり、いつもと変わらない日々です。

 

昨日、「クールの5ミリください」と言われたので、

区のゴミシールを出してしまいました。

 

お客さんも私も、思わず笑ってしまいました。

でも、この聞き間違いは納得ですよね!!にゃー

タバコのことでしたタバコ

 

 

さて、今回は栃錦男の子

相撲史上に残る名横綱と言われているだけあって、

世の中に出回る資料が一気に多くなりました。

 

『横綱&大関大鑑』も、これまで片面1ページだったのが、

栃錦や若乃花は見開き1ページ。

DVDに至っては、これまで1人10分弱だったのが、栃錦一人で55分!

 

さらに何より、

栃錦が活躍していた当時を知る方も多いと思うので、

机上の勉強でお恥ずかしいですが、

良ければお付き合いくださいヒヨコ

 

 

さて、その栃錦です。照れ

小兵横綱で、177cm、132kg。

今の時代の力士でいうと、飛猿、松鳳山、琴恵光らと同じくらいでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

【第44代横綱 栃錦清隆(とちにしき・きよたか)】
 

ダルマ生い立ち

 

大正14年2月生まれ。東京都江戸川区南小岩出身。

幼い頃から体が大きくスポーツ万能で、あだ名は「相撲」。( ゚Д゚)虹

近所の八百屋の紹介で、栃木山(27代横綱)の春日野部屋に入門。

一般社会では大きいほうでも、

相撲の世界では新弟子検査もようやく合格したほどの小兵でした。

そして昭和14年1月、16歳で初土俵。

 

この頃は、双葉山(35代横綱)が69連勝の真っ只中。

日本中が双葉山フィーバーに揺れていました。

 

栃錦も、一度だけ胸を借りたことがあり......

ちゃんこ番で、魚のうろこを取っている最中に呼ばれ、

うろこだらけの手で思いきりぶつかると、

双葉山の胸に魚のうろこをつけてしまい、

「臭いなwww」と言われたそうですが、一生の思い出なんだそう。ラブラブ!

 

そして、相撲の神様双葉山に少しでも近づきたいと心に決めたそうです。

 

 

ダルマあだ名が「マムシ」

 

歌舞伎役者の6代目尾上菊五郎は相撲好きで、よく稽古見学にも訪れたそうです。

 

栃錦の相撲を見て、

「あの野郎、下から食らいついたら離さないしぶとい相撲でマムシみたいだな!」

と言ったのがきっかけで、栃錦は「マムシ」と呼ばれるようになったそう。

 

そのしぶとい相撲で順調に出世し、19年5月新十両。

1年間海兵隊で兵役を務めたのち、22年6月新入幕。
 

最後まで勝負を捨てない相撲はずっと変わらず、

26年初場所では7連敗から8連勝という妙技を成し遂げます。

 

 

ダルマ技師

 

軽量をカバーする右四つ左半身から多彩な技を次々繰り出し、

技能賞を5場所連続9回も受賞する、三賞の常連でした。

 

213cmの不動岩戦で鮮やかに決めた「たすき反り」は、

平成29年1月に宇良が天風戦で決めるまで、

66年間関取では誰も決められなかった奇手。

 

他にも、吉葉山の巨体が宙を舞って倒れた「左二枚蹴り」。

大内山戦での首投げ。

栃錦は生涯の取り組みの中で40にわたる技を使ったと言われ、

名人技にファンは酔いしれました。

 

さながら、「土俵上は四十八手の見本市のようだ」と言われたそうです。ぶーぶー虹

 

本人はインタビューで、

「技なんてやろうと思って決まるわけではなく、

とっさに出た技が決まるんですよ」と話していました。

 

日頃の稽古が大切であることや、

相撲以外の事にも通じそうだと感じますにゃー

 

 

ダルマ相撲のモデルチェンジ

 

元関脇出羽錦が、

「栃関ほど、取り口が変わっていった人はいない」と話しています。カメ

 

栃錦は昭和29年10月、横綱に。29歳でした。

しかし、その後2年間優勝から遠のく試練の時代がやってきます。

 

この時、体重を増やし、相撲のモデルチェンジに取り組んだといいます。

技能派から、正攻法の押し相撲へ。

 

これが実を結び、32年9月には9場所ぶりの復活優勝。次の場所も優勝。

大鵬、柏戸、琴ヶ濱ら新鋭をものともせず、破竹の勢いを見せつけました。

 

スピード溢れる連続技から、

上手出し投げが名人芸と言われるまでに変わっていきました。

 

 

ダルマ栃若時代

 

そんな栃錦に並び立ってきたのが、3歳下の若乃花(45代横綱)です。

タイプは違えど同じ小兵で、26年5月の初顔合わせ以来、毎場所のように好勝負を展開し、

ファンは熱狂しました。

 

ちなみに前項の通り、この間栃錦は相撲のモデルチェンジをしています。

若乃花も、栃錦の相撲を、「出る相撲に変わった」と話していて、

技でも押しでも日本じゅうを沸かせました。

 

33年1月場所後に若乃花が横綱に昇進してからは、

毎場所のように千秋楽結びで優勝をかけて激突。クマパンダ

そして優勝を交互に繰り返し、

戦後大相撲の黄金期『栃若時代』を築きます流れ星

 

35年3月には、史上初の両横綱全勝対決。

これを若乃花が制し、栃錦は5月に引退。

およそ2年にわたる栃若時代が幕を閉じました。

 

 

ダルマ両国国技館建設

 

引退後は、7期14年にわたって、協会理事長としてリーダーシップを発揮。

中でも特筆すべき功績は、現在の両国国技館建設です。

 

まずは、場所です。

聖地両国、隅田川のほとりにこだわった栃錦。

両国駅から歩いてすぐという立地は、ひいては最大のファンサービスともいえます。

 

それから、次世代に借金を残してはいけないと、

力士や親方の給与を抑えて150億円を捻出し、無借金で建てたこと。

 

さまざまなドラマがありながらも、

無事故無災害で昭和60年1月こけら落とし。

 

春日親方として横綱栃ノ海、大関栃光ら名力士を何人も育てました。

命尽きるまで、国技大相撲に尽くした名横綱です。

 

 

サンタ虹19代ヒゲの伊之助の話

 

①涙の抵抗 

 

最後まで勝負を捨てない栃錦は、しばしば際どい勝負を見せたのです。

有名な行司泣かせの一番に、伊之助事件があります。

北の洋との一番で、栃錦に軍配が上がるも物言い。

行司差し違いで北の洋の勝ちとなります。

しかし伊之助は承知せず、顔を紅潮させ、甲高い声で自分の判定を主張し、協議は大もめに。

やがて伊之助は勝負がついた場所へ移動し、土俵を叩いて白いひげを揺らして猛抗議。

約13分の協議の末、しぶしぶ北の洋に軍配を上げ直しました。

この場所は、伊之助が進退伺いを提出し翌場所から出場停止となりましたが、

これをきっかけに、行司も協議に参加できるようになったようです。

 

②昭和29年名古屋準場所にて。

玉ノ海に勝った鏡里に向かい、「玉ノ海」と勝ち名乗り。

間違いに気づき、「.....に勝ちたる鏡里」と続けたそうですにひひ

 

 

パンダこの時代の相撲界の出来事

・昭和27年秋、四本柱が消え、吊り屋根に。

・昭和29年9月、蔵前国技館完成。

・昭和33年7月、名古屋準場所が本場所に昇格。

 

 

ダルマまとめ

 

栃錦(春日野理事長)は、両国の地に国技館建設が叶ったことについて、

のちのインタビューで、

「やりたいと思ったら、夢を持ったら近づいていかなきゃ!」と語っていました。

とても印象に残りましたが、アラフォーの私の心にはもう刺さりきらない......

 

 

ベル参考文献

横綱&大関大艦(ベースボール・マガジン社)

歴史ポケットスポーツ新聞相撲(大空ポケット新書)

大相撲大全集~昭和の名力士~壱(NHKDVD)

大相撲 あの力士、あの一番(荒井太郎 ソニー・マガジンズ新書)

相撲大事典(現代書館)

もういちど読む山川日本史(山川出版社)

朝日新聞デジタル