北海道もやっと春らしくなってきた。

先日、向かいのお家の庭先にふきのとうが可憐に咲いていた。

その家の奥さんからフキノトウの天ぷらで「春を感じてください」と

粋なお言葉をいただき、早速、春の恵みを頂戴した。

 

今日で我は78歳になった。

     

世の中は、イラン戦争などによる戦火で弱い者たちが犠牲になり、

なんともやりきれない憤りと怒りを感じている昨今である。

 

世の中は富める者と底辺にいる者との格差が益々広がりつつある。

この先、世の中は格差社会による分断と経済の不安定さから来る不況が

跋扈することが予測されるだろう。

    

緩やかな日々より忙しい時間による混迷と余裕のない「追っかけられる」

ような妙に嫌な錯覚に陥る社会になって行くかもしれない。

 

もうすく80歳を目の前にして自分の周りを見渡せば、体力や気力が衰え

病気をする仲間や入院を余儀なされる人が多くなったことを実感している。

 

また、残念なことにその先にある『死』という場面に出くわすことが多々

あることも避けせれない歳廻りになってきたような気がする。

   

テニスや歌の趣味を通じてお付き合いのある仲間たちも体に変調を

きたしているということをよく耳にしたり、そうした場面によく

出くわすようになってきた。何か妙に落ち着かないという不安感。

 

自然の摂理だから仕方ないのだが、それでもアクシデントショックを

受けることが多くなっているという現実がそこに転がっている。

 

昨日、40数年来の親交のある友人が我が家を訪ねてきた。

肺にがんが見つかり、今月の中旬から抗がん剤治療に入るという。

医者からは、余命2年余りという酷な宣告を受けたという。

   

その友人は、山を愛し、海に行ってのアメマス釣りで地元では

有名な釣り師として知られた男だ。

我に釣りの手ほどきから山菜取りの極意までいろいろと教えてくれた

なくてはならない貴重な存在がその男である。

 

「別れ」はこの世に生を受けた以上、どこかで『グッバイ』をしなければ

ならない定めと分かっていても、そんなことを聞くと何となく寂しさと

悲しみを抱くものだ。

        

形見の品として彼が大事にしていた「釣竿とリール」を置いて行った。

「形見ではなく、一時預かりだぜ!!」と強がりを言ってはみたものの、

何かやりきれなさと割り切りができない切ない寂しい気持ちがあった。

 

『一日一生』という我の座右の銘は、生きてる限り一日一日を大切にしながら

日々を全うする心意気で毎日を過ごす気持ちが、そんな場面に出くわした時にこそ

ヒシヒシとそんなことを想う齢になった。この年になれば、それぞれの友人達なりの

『心の歳時記』を想ってみたり、心模様を考えることが多くなってきている。

         

残された人生の中で「生きている限り」日々の暮らしの大切さと、生かされている

この命を全うする心を常に意識しながら一日が終わり、床に就くときに「感謝の心」

を持って過ごす自分で在りたいと常々そう想っている。

 

『生きている限り』、後悔しないように、悲しいことや辛いことなどがあっても

残された人生を生き切る勇気を懐に抱えて日々を過ごせたらと想っている

今日此の頃である。

      

               (画像はネットからお借りしました)