公共事業を考える~その一・清水峠越え | 徹通塾・芝田晴彦のブログ

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「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」という一節が有名な川端康成の長編小説『雪国』。この「長いトンネル」とは当時開通したばかりの上越線・清水トンネルのことだが、その名称の由来となった清水峠に関わる話。

明治11年、新政府の大久保利通達は俗に『七大プロジェクト』と呼ばれる、東日本の交通インフラストラクチャーを整備するための幾つかの事業を計画した。ほとんどは水運に関わるものだが唯一、陸路の大規模な整備を企てたのが、現在の群馬・新潟県境の『清水越往還』であった。

上杉謙信の時代、上野国と越後国とを結ぶ最短ルートであった清水峠越えの往還は彼の軍勢が関東へ行軍する際に使用したことから「謙信尾根」とも呼ばれたが、時代が下るとより標高差の少ない三国峠を越える三国街道の方に人の流れが移っていく。

険しいが距離の短い清水峠越えが見直されたのは明治新政府の時代。先ずは熊谷県(現在の埼玉と群馬の大半が合わさった地域)が再整備し清水越往還が復活する。然し当時の人やモノの往来は徒歩が主流。清水峠を越える道も今でいう登山道程度の状況だった。

折しも日清・日露戦争を控えた時勢。日本海に面し大陸を睨む位置にある新潟に大量の物資や人員を送ることを想定し、新政府はこの清水越往還を馬車がすれ違える規模にまで拡幅することを決断。それまで道路と云えば藩やそれを継いだ自治体が整備するのが相場であったが、国直轄の大事業として改修作業が始まった。

明治14年に始まった工事は四年後の明治18年8月に終わり国道8号線の一部として完成、翌月には政府要人や皇族も招かれ盛大な開通式が行われた。

ところが。清水峠の周囲一帯は川端成の小説どおり日本有数の豪雪地帯。建設中既に地元民からが「大丈夫だろうか?」「使いものになるのか?」「例え道路が完成しても雪のため年の半分近くは通行出来ないだろう」と不安視する声が上がっていたが案の定、谷川連峰の酷しい気候にさらされた各所で土砂崩れが頻発、開通後わずか一か月にして馬車での行き来は不可能とになった。




(R4.5.5 旧国道8号・現国道291号線~谷川連峰一ノ倉沢出合付近)

間も無く冬を迎えると雪崩が頻発、道路は無数の箇所で崩壊した。その後数年かけて修復を試みるもどうにもならず実質上廃道となる。帝都と上越地方を結ぶ手段は明治26年、碓氷峠越えの横川~軽井沢間の開業を以って全線開通した信越本線が、長野経由の遠回りではあるが鉄路故の利便で主流となり、また後に国道17号線の指定を受ける三国峠越えがこれを補うカタチとなった。

更に昭和に入って。清水峠のおおよそ真下を鉄路で貫く上越線の「国境の長いトンネル」こと清水トンネルが完成。帝都と新潟の間は距離にして碓氷峠経由と比べて100km近くも短縮されることになった。因みに最近「モグラ駅」として頻繁に報道で取り上げられる土合駅の地下ホーム。これは当初単線だった上越線を複線化するため新たに掘られた新清水トンネルの途中にある。また、近年開通した上越新幹線はその近くの大清水トンネルを抜けていく。

一方、崩壊した『清水越往還』はその後、国道指定を解除され県道に格下げされるが通行止め(というか道路がほとんど消えてしまった状態)なのは相変わらず。何故か昭和45年に国道291号線に再指定されるも清水峠付近の状況は変わらず。群馬側から新潟県へ抜けることは徒歩での移動でさえクライミング経験のある者でも厳しい。

ところで。何故わが国初の政府による陸路整備の大規模なプロジェクトの結晶が開通一か月にして使いものにならなくなってしまったのか? 一説には当時の新政府の重鎮が薩長出身者で占められていたからと囁かれている。雪を知らない彼等が豪雪地帯に道を無理矢理作ったからだと。こういう公共事業の事例、近年でも他に無いだろうか?