【寄稿】朴裕河教授著「帝国の慰安婦」 | 徹通塾・芝田晴彦のブログ

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昨日(7月19日)、朴裕河教授著「帝国の慰安婦」読み終わりました。彼女は「どちら」にも媚びていません。「<媚日>と彼女を批判する日韓の人々」も、「挺隊協に批判されたから喜んで彼女の本を紹介している日本の<ネトウヨ>」もこの本を読んでいないのでしょう。


読んでいて私は沖縄の「鉄血勤皇隊」の少年少女たちのことを思いだしていました。どのような環境でも人間には誇りやプライドが必要であること、そして「日帝」支配下の強制と「米帝」支配下の現在日本の強制こと、運動や組織が自身の為に動きだしてしまうこと・・、ずっしりと受け止めました。


この本を読んで良かった思うことのひとつは、慰安婦の方々を身近に感じることができたことです。「まるで関係のない他者」という位置づけでは、問題に近づいていくことが出来ないでしょう。


運動の自己目的化については、日本でもよく見られる現象です。それは「挺隊協」だけでなく「頑張れ○○」という自称保守団体や、「○○市民の会」だろうと、常に内包する問題です。


以下に、この本の印象的な部分を書き出してみます。私がポイントだと思う箇所です。


「・・・・慰安婦たちは、自分たちの役割が軍人を精神的に慰めることでもあることも認識できただろう。そういうとき、社会の差別的視線にさらされていた彼女たちが、誇りを感じたとしてもおかしくはない。彼女たちにとって軍人を支えることで<愛国>的行為につながる「慰安婦」という存在は、初めて自分の居場所を日なたに作ってもらえたことでもあったはずである。」


「・・・そのようにしてつかんだ「誇り」が、所詮国家の欺瞞でしかなく、彼女たちの慰安婦生活が依然として「消しゴムで消せるものなら消してしまいたい過去」でしかありえないほどにつらかったとしたらなおさら、その「誇り」は必要だったはずである。」


(第2章「慰安所」にて風化する記憶 1日本軍と朝鮮人慰安婦 地獄の中の平和、軍需品としての同志 より /*下線、引用者)
以上(業平)