前回も書きましたように、私は、今の多くの「保守政治家」「保守言論人(行動保守含む)」に対してはカタカナで「ホシュ」「似非ホシュ」と呼ぶようにしています。彼らは保守とは言えない人たちだからです。
さて、前回は小林秀雄の発言を引用しました。今回は江藤淳について紹介してまいりたいと思います。
江藤は「戦後と私」と言う文章の中で以下のように書いています。
私は昔がよかったから昔にかえれといっているのではない。むしろ昔にかえれるはずがないという喪失感を語っているのである。(「戦後と私」より)
この文章を読み、思い出すのが、前回選挙の際の「次世代の党」の演説風景です。この「ホシュ政党」の候補者は、渋谷のハチ公前でこのように叫んでいました。
「皆さん!誇るべき日本を取り戻しましょう!皆さん!誇るべき日本を取り戻しましょう!」
私は、業務中でしたので、さめた心境で仕事の目的地に急ぎました。この候補の大声やその演説内容を空疎なものとしか感じられませんでした。
「昔にかえれるはずがない」という悲しみもなく喪失感もなく、また誇るべき日本とはなにか、それは本当に誇るべきものだったのか、また、何を誇るというのか、そういう検証もなく、ただイメージ的に、彼らの「客層」にうける演説をしているとしか私には思えませんでした。
別に、愛国的な若者が「誇るべき日本を取り戻しましょう!」と言う事に対して私は文句をつけるつもりはありません。「そうですね、良い国にしましょうね」と言うでしょう。
しかし「次世代の党」とはいえ、いやしくも公党であるとするならば、それくらいの検証なり、深みのある話をしてもらいたいものです。
また、江藤はこのような事も書いています。
『千年の愉楽』における中上健次氏の試みが示すように、「歌」を取り戻すためには、まず「声」を取り戻さなければならないのかもしれない。「声」を回復する以外に、戦後の言語空間に仕掛けられたあの人為的な禁忌の呪縛から自由になる道はないかも知れない。
「日本人は「歌」どころか「声」まで喪っているのだ。ここまで、絶望的な状況なんだぞ」と語っているように感じます。威勢のいい楽天的な自称ホシュたちに比べ、なんと厳しい認識でしょうか。本当の保守なら、これくらいの発言をしてもらいたいものです。
江藤は平成十一年自殺をしました。享年六十六歳。私が、親族以外もっとも衝撃を受けた死でした。
(業平)