どうも、はちごろうです。



映画「勝手にふるえてろ」の感想。続きです。





人は誰かを常に「脚色」する生き物である。



この場面を境に、それまで語られていたヨシカの日常が
実は彼女の脳内で都合良く「脚色」されていたことがわかるんですね。
(ま、冒頭からなんとなく不自然だなとは思ってましたけど)
彼女が普段からイチのことを話している町の人々が
ホントは一切面識のない、全くの他人だったわけです。
つまり、普段の彼女はほとんど人と会話をする機会のない、
深刻な孤独感を抱えて生活していることがわかるんです。
しかも24才にもなって恋愛経験がなく、
やはりそのことに後ろめたさも持ってたりもしてる。
そのことを改めて実感し、帰宅したヨシカは玄関で泣き崩れてしまうんですよ。

でも一方で、彼女を傷つけたイチの方もイチの方で、
実は学生時代に「いじられキャラ」だと周囲には思われていたけれど、
自分自身はその「いじられること」を不快に思っていて、
自分は「いじめられていた」と認識していたんですね。
だからヨシカに「本当は同窓会には来たくなかった」と話すんですね。
いじめられていた相手なんか二度と会いたくないわけです。
でも、渋々行った同窓会でヨシカと出会い、
「意外に話の合う子がいたんだな」ということに気づいたりして。
でも彼のその心の傷に対して、ヨシカはさほど思いを巡らせられないというか。
彼女にとって当時のイチは自分が恋心を抱いていたこともあって
「人気者だった」という認識だったので。
結局、ヨシカが当時の彼をどんどん「美化」していったように
イチも当時のクラスメートを悪い方に「脚色」していたわけです。

といったような感じで、人は過去の記憶を都合良く改変する生き物で、
その改変された過去が「妄想」だということを認めざるを得なくなったとき、
その辛さからさらに暴走してしまう生き物なのだなぁと。



Everyone has a name



で、そういった本作の登場人物の中での理想と現実の関係を
端的に表しているアイテムが「名前」なんですね。
人は、名前を覚えてもらって初めてその人の中に存在するようになる。
つまり、本作ではきちんと名前で呼ばれている存在が現実で、
それ以外の存在は、登場人物にとってはみんな妄想というね。
例えば、ヨシカにとって市崎はあくまで想像上の「イチ」であって、
本来の市崎とはかなり開きがあるわけです。
彼女にとっては「いじられキャラの人気者」だと思ってたけど、
当の本人は「いじめられっ子」と認識していたように。
そして彼のことを「イチ」と呼んでいるのは彼女だけで、
同窓会で出会ったクラスメートたちはみんな「市崎」と呼んでる。
ヨシカが「イチ」のことを語って聞かせる周囲の人たちも
当然彼女は彼らの本名を知らない。それどころか近づきすらできないわけです。
そして彼女にアプローチしてきた同期の霧島。
ヨシカは当初、この冴えない彼のことを「二」と呼んでるわけです。
でも二人で一緒に行動を共にし、互いの感情をぶつけ合った末、
ついに彼女は彼のことを「霧島くん」って呼ぶに至るわけです。
ヨシカが妄想恋愛に見切りを付け、冴えない現実を受け入れるんですね。



ま、実在しない「脳内で極限まで美化された妄想」よりも、
いま目の前にいる「冴えないけれど現実に存在している誰か」に
目をそらすなって話だったのかな?と。
恋愛をするのは、恋愛を出来るのは美男美女だけではない。
大半はそんな「冴えないもん」同士が
妥協し合ってお互いを受け入れていくもんなんだろうと。
それを認めるのは結構勇気がいることだけどさ、みたいな。

主演の松岡茉優さんの存在感、あれはすごかったですよ。
挙動不審な言い回しとかすごい説得力あって、ホント上手い!って思ったし。
で、また霧島役の渡辺大知さんもリアルだったんですよ。
「あ、こういうボンクラな若いやつ、いるなぁ」って感じで。
だから、好きな人はとことんハマるんでしょうけど、
私はそれほどテンションが上がらなかったですね、残念ながら。
それこそ「勝手にもだえてろ」って感じですかね。








[2018年1月21日 新宿シネマカリテ 2番スクリーン]




※とりあえず、スタッフ・キャストの過去作でも