ためてしまい、遡ってっていう時もあったけれど、

基本的に毎日記事にしていた私のブログですが、

義務を感じ、積極発信したく更新した石巻関係の記事以外、

日常を記録するという意味での記事はかなり間が空いてしまいました。


3月11日の昼下がりの、あの今でも信じられない出来事から

もうすぐ1カ月がたとうとしています。

私が、更新をしなかったのは、自粛していたからでも、

ずっと祈っていたからでもなく、ただ、感情がそうさせなかっただけです。

直接被災をしたわけではなくとも、

まさに、自分の愛する家族が被災地にいた、安否が分からない、

という出来事に直面し、恐怖し、心配し、祈り、動揺し、、

だから、"ブログを書こうとも思えなかった”だけです。


この2週間、色々な事を考えました。

初めの日は恐怖と悪い意味の興奮に打ち震え、

状況が明らかになってきてから、祖母の安否が分かるまでの数日は

働いていても、食事していても、いつの間にか寝る瞬間まで

祈り、なんだか朦朧とした感じだった気がします。

その後も、溢れかえる情報におかしくなりそうで、

TVを消しては付け、Twitterでパ二くった人の怖い善意や

暴言におびえ、ちょっと過呼吸気味になったような気もします。


だけど、ちゃんと食べてました。寝てました。

色んな人とやりとりをしながら、考えて、生きてました。



ちょっと落ち着き出すと、今度は「不謹慎」の言い合い合戦。。

静観をしてましたが、すごくこわかったし、変だなぁって思いました。

もちろん、大変な方々の映像をみて、「超ウケル!」とか言ってる

人がいたら、そりゃ不謹慎ですし、それを通りこしてる事態ですが、

恐怖が落ち着き、普通に生活や仕事をはじめようとする人も、

(私の友人を含め)ネット被災しましたね。。傷ついたと思います。


「不謹慎だ!不謹慎だ!」って言ってる人も

きっと、とても気持ちが優しい人なんだろうな、って。

「なんで亡くなった人のことを思うと、私はこんな気持ちなのに

 みんなは笑えるの?歌えるの?食べれるの?」って思って

やるせなくて、耐えられなくて、だから「不謹慎だよ、やめて」って

そういう優しい感情に溢れてるんだろうな、って。

だけどね、普通の生活に戻ろうとして、笑ってる人も、

唄ってる人も、いつもの楽しいブログを再開した人も、

悲しい出来事を忘れてるわけでも、無関心なわけでもなく、

大切な人を守るためだと思うんだよね。

だって、あんなに悲しい出来事すぐに忘れられるわけはないじゃない。



私たちを徐々に普通の生活に戻させたものは環境だと思います。

例えば、時々挨拶をする程度の近所の人のご家族が

ご病気でなくなった、

例えば、遠い外国で何万人の方が亡くなった災害が起こった、

そんなとき、その情報を知った時は、ご家族の悲しみや、

多くの人の悲しみを想像し、涙を流したりしますが、

だけど「不謹慎」だから、と、私は友人の結婚式に

行くのをやめないし、飲み会の予定はキャンセルしません。


「関係がない」っていう言葉は、乱暴だし、不適切かもしれませんが、

遠くの私が、私の一日を自粛したって正直意味はないですよね。

想像して、動いた感情は本物だし、無駄ではないとしても。


遠くの人や”直接”関係がない人にまで自粛を求めるのであれば

誰かが言っていたけれど、人間生きてるだけで不謹慎ですね。


あくまで、人それぞれの感情と環境になんだと思うのです。

私は、家族が被災したから、ここまで長く暗い気持ちだったんです。

よく知っている、よく遊びに行った母親の生まれ故郷が

もう元の形で見られないんだ、って思ったから長く悲しかったんです。

被災者はもっともっともっとでしょう。

だけど周りの人たちから、関係が薄い人から

前を見て普通に戻らなきゃいけない。(忘れずに祈りながら)

そうやって世界は今まで流れてきたんだと思います。


それぞれの人が、それぞれの環境で、

それぞれの大切な人がいる中で、それぞれの日々を生きています。


逆に、だからこそ祈れるんだと思うんですよね。

だからこそ応援できるんだと思うんですよね。

物理的なことは省いたとして、世界全員が

同じ感情で、同じ仕事で、同じ場所に生きていたら、

それは、なにかの出来事で一瞬で終わっちゃうんです。


それに、身近な人を、隣にいる人を愛し、守ることが出来ない人に

遠くの人の心を想像し、思いやることができると思えません。


そのことを想った時に私は、悪意や完全なる無関心以外の

感情からくるその人のアクションって、

何一つ否定できるものではないんだよなぁって感じたんです。

だから一つ決めたことは「批判をしないこと」


なんか分かりづらいですよね。。

例えば、「買占めやめようよ!なんでこの人いくつも抱えてんだよ!」

って、私も思いました、イライラしました。

だけど、トイレットペーパーを2つ抱えて列に並んでいて、

周りから露骨に文句を言われたり睨まれていた女性を

店の前で5人の子どもが待っていたのを見た瞬間とか、

義母が、昼間働いている私たちが購入出来ないだろうと

心配をして少し多めに買った食品を分けてくれた時とか、

そうだよな、大切な人のために多めに買う人だっているんだよな、

って、視野の狭さをこんなにもすぐに反省しました。



私にとって、一番悲しいことは、大切な人が笑顔を失うこと。

大切な友達が、今までいきいきとしてやっていたことをやめてしまうこと。

元気なあの人が元気じゃないこと、無気力なこと。

生きているのに、生きている音が聞こえなくなること。


逆に言うと、私が笑顔を失い、音も立てずに生きるならば

家族や友達という大切な人たちを悲しませるのだと思うんです。


そう、私たちがそれぞれの個性で、精一杯生きるのは、

自分のため以上に大切な人を守るためだと思うのです。



どうして勉強するの?

どうして働くの?


大切な人を守るためです。


勉強して字が読めなければ、数字が分からなければ

大切な人を安全な場所に誘導出来ないんです。

辛い事が多くても働いて、お金を稼がなければ

ご飯をしっかり食べられない。

ひもじければ大切な人に笑顔を向けられないんです。


そうして、大切な人を守るためにした勉強の知識や、

労働の産物やお金が、遠くの人にいつのまにか届いてる。

それが社会であり、経済なんだって思います。



なんだか、長く長ーくなってしまいましたが、

せっかく色々考えた1ヶ月だったので、考えたことを残しました。

これだけ多くの人の多くの感情に触れたのは初めてでした。

大好きだった哲学的な観点ではなく、もっと生々しい観点から

「生きること」を考えたのは初めてでした。



地球という得体の知れない場所に、得体の知れない身体

というものを持った私たちが生きてます。

100年もすれば、身体なんて残らないし、

地球だっていつかは無いかも知れません。

だけど、人を想った感情とか、悩んだ心とか、

そういうものは、ずっとずっとどこかに残ってる

そんな気がするのです。


大切な人を想い、守り、必死に毎日を生きる、

だからこそ、その大切な人を失った遠くの人の悲しみを知り、

その方々のために祈る。

そうやってそうやって、私たちは生きていく、

目に見えないものを重ねて重ねて、

やっぱり目に見えない歴史が自然に刻まれていく。


こうやって、壮大なんだか至極ちっぽけなんだか

分からないことを考えながらも、私は時計を気にして、

夫が帰ってくる時間のちょっと前から冷蔵庫をパタパタし、

ちょっと期限の過ぎた牛乳の匂いを嗅いだりして、

「これ、大丈夫かな?」なんて言いながら、

シチューを作り始めたりするのです。