よく討論系の番組で見るフレーズ。

 

「〇〇は許されるのか?」

 

〇〇には、主に倫理や常識みたいなものから少し外れたようなものが入る。

 

不倫だったり、歳の差恋愛だったり、お金や教育や子育てに関する何かだったり、

 

その時にふと思うのだが、

 

許す、許されないというのは誰にとって?

ということだ。

 

こういうフレーズにすることで、番組の議論が盛り上がるのは分かるが、

 

許すとか許されないとかの言葉は、

 

「正義」や「正しさ」という考えに直結する。

 

そして正義や正しさという建前を持つと、人は案外狂暴になる。

 

「世間が許さない」という人の

おそらく99%は「自分が気に食わない」と言っていると思っている。

 

正しさという剣は子供から大人まで容易に振るえるのだ。

 

これに囚われないために、

 

すぐに許す、許さないという判断をしないことが大切だと思う。

 

要は、勝手に判断しない、だ。

 

常識や倫理、理性で判断していると自分では思っていても、

 

そこには多分に自分の好き嫌いが入っている。

 

人は自分の好き嫌いからは逃れられないものだ。

 

だから、物事を許す、許さないで判断するのではなく、

 

自分はこれは好き、もしくは気にならない。だけどまあ、好きじゃないっていう人もいるよね。

 

自分はこれは嫌い、正直気分はよくない。だけどまあ、これが好きで楽しいと思う人もいるか。

 

くらいに、いい意味で、のらりくらりとしているほうがいい。

 

正義や正しさは、分かりやすいし、何より強い。自分を昂らせてくれる。

 

だが、頑強や巨木は案外折れやすく、風にその身を任せる竹のような植物の方が折れにくかったりする。

 

決めつけない、どっちつかずの心というのも時には大切なのだ。