人はやたらと人生について悩む。

 

失敗したら悩み、成功したとしても、次失敗したらどうしようと悩み、

 

上手くいこうが、いかなかろうが、次のことでまた心を悩ませる。

 

なぜ、そこまで悩み、心配することが多いのかと考えた時に、

 

人生というものの考え方が浅いのではないかと思ったのである。

 

例えば、仕事で悩む。

 

自分が今やっている仕事。生活はできるがそれほど稼げるわけでもない。特に人に自慢できるようなものでもない。

あいつみたいに出世しているわけでもなければ、あいつみたいに有名なわけでもない。

 

要は、仕事に関して自分は大したことないと考え、そんな自分の人生も大したことないと悲観している。

 

これは何も仕事に限った話ではない。

 

健康、恋愛、友人関係、親子関係、様々なものに及ぶだろう。

 

人によっては思い悩むあまり、心を病んでしまう人もいる。

 

だけど、それは人生というものを実に狭く見すぎなのではないかと思うのだ。

 

仕事や結婚、親や子供、それらは人生の一部ではあるが、あなたの人生そのものではない。

 

どんな仕事をしているか、給料はどれくらいか、結婚はしているのかいないのか、子供はいるのかいないのか、いるとしたら子供の教育にどれだけお金を掛けているか、

 

確かにこれらは人生の中の要素ではあるだろうが、

 

これを他人と比べて、自分の人生は優れているとか劣っているとか判断してしまうのは、あまりに急ぎすぎではないだろうか。

 

見方をもっと深くしなければいけない。

 

例えば年収1000万超えの大企業の社員と、コンビニのアルバイト。

 

どっちの人生を歩みたいかと聞かれたら、大方は前者だろう。

 

だけど、もし前者が、

上司や部下、同僚、顧客に不平不満しかなく、普段口から出てくる言葉は誰かの悪口なんかの汚いものばかりで、仕事も大して好きなわけでもない。

ただ、給料はいいから続けているだけ。

ストレスばかりの仕事から得たお金を、ストレス解消のために使う。

 

片や、コンビニの仕事が楽しくて仕方なく、お客さんとも顔なじみで親しく、自分が売っている物が、誰かの生活や仕事を支えていることを自覚して、それに得も言われぬ充実感を得ているとしたら、

 

どちらの人生が羨ましいかは、最初の質問ほど簡単には出ないのではないだろうか。

 

僕たちは人生というものを、あまりにも少ない要素だけで判断しがちだ。

 

だけど、人生とはもっと深く広いものではないだろうか。

 

好きなことで生きていく、という言葉がもてはやされている。

 

確かに好きなことをして生きていくのは素晴らしいことだ。

 

だけど、好きなことが上手くいくとは限らない。そんなとき、人は簡単に絶望してしまう。

 

好きなことをして生きていけない自分には、何の価値も無いのではないか、と。

 

だけど、「好きなこと」は人生の一部であって、「人生」そのものではない。

 

では、人生とは何かと聞かれたら、

正直、はっきりとこれだと言えるようなものは今の僕にはない。

 

ただ、言えることは、今この瞬間は間違いなく人生である。

 

今、何を見て、何を聞いて、何を考えているのか。

 

それは間違いなく人生である。

 

だとしたら、この瞬間、心を消極的にしているのは、あまりにももったいなくはないだろうか。

 

仕事で大きなミスをしたとか、長年付き合っていた恋人を別れたとか、

 

そんな分かりやすいものばかりが、人生における失敗ではない。

 

今、この瞬間に心を弱く使ってしまっていることこそ、人生における損失なのかもしれない。

 

そう思うと、いちいち何かを他人を比べたり、いちいちSNSで他人の言動に反応してしまったり、いちいち勝手な妄想で未来を悲観してしまったりしているのは、なんだかバカらしくないだろうか。

 

人生を良くしようと思ったら、何か準備が必要なわけではない。

 

まさに今ここから始められるのだ。

 

人生は心一つの置きどころなのである。