心は常に止まることは無い。

 

どんなに落ち着いている時でも、心が止まるということはなく、

 

凪の状態と言われている海でも、決して海面が止まらないのと同じように、

必ず何かしら思考している。

 

だから、突然昔のことを思い出して嫌な気分を再体験したり、昔のいい思い出が浮かんできて切なくなったりする。

 

だから、ネガティブな考えだけは止めて、ポジティブな考えだけをするというのは、

 

基本的には無理だと思っている。

 

次の瞬間、どんな形の波がやってくるなんて、こちらで決めることはできない。

 

どれだけポジティブにポジティブにと頭の中を一杯にしても、それだけを来させることはできない。

 

むしろ、それでいいなら、こんなに楽なことはない。

 

どうしたって、人に感情や思考がある限りは何が心の中に起きてもおかしくはない。

 

じゃあ、もうどうすることもできないのなら、きっぱり諦めていいのかというと、それも違う。

 

重要なのは、心の捉え方だ。

 

人は心を自分自身と同一視しがちだ。

 

そりゃそうだと思うかもしれない。

怒っているときには自分が怒っている。

悲しんでいるとには自分が悲しんでいる。

 

そう思うのが普通だ。

 

だけど、心の上手な使い方、みたなタイトルの本が本屋に行けば何十冊とある。

ヒントはこれだ。

 

そう、「使い方」である。

 

心というのは「自分自身」ではない。

 

「道具」であると考えるのだ。

 

心とは、料理人にとっての包丁。

歌手にとってのマイク。

画家にとっての絵筆。

 

自分自身がどう生きるか、それを表現するための道具として、心を捉えるのである。

 

もし、あなたが料理でもスポーツでもいい、何かをしようとして、その際道具を使うとする。

 

その時、道具に汚れが付いていたら、あなたはどうするだろうか。

 

汚れをふき取るのではないだろうか。

 

その道具に愛着を持っていればいるほど、そうするだろう。

 

心も同じだ。

それを道具として使うのならば、汚れを付けてはいけないのだ。

 

不安や恐怖、焦りというのは汚れだ。

汚れが付くのはしかたない。でも、汚れを付きっぱなしにしてはいけない。

それでは、道具としての性能を引き出すことができない。

 

もう一つ、別の例えをすると、

 

もし、あなたの手に突然、自分の嫌いなものが乗っていたらどうするだろう。

 

虫でもいいし、何ならウンコでもいい。

 

そんなものが突然手の上に乗っていたら・・・

 

当然、振り払うだろう。

 

その突然手に乗っていたものが、不安や心配、焦り、怒りなどだ。

 

だけど、多くの人は、それらが手の上に乗っても振り払うことはせず、握りしめてしまう。

 

自分の体なら、嫌なものは遠ざけようとするのは当たり前だと分かるが、

 

何故か心は嫌なものを逆に握りしめてしまうのだ。

 

 

だから、道具の汚れを落とすように、嫌なものは手の上から振り払うようにすると、心を落ち着いて使うことができるはずである。

 

難しいと感じるかもしれない。

 

だけど、心は道具なのだ。

道具であれば、練習すれば使いこなす可能性は十分ある。

 

それに、自分の心を使いこなせないと、

下手をすると、他人にあなたの心を使わせてしまうという、

 

主導権を知らず知らずのうちに渡すことにも最悪なり得る。

 

他人の一言一言に、自分の心を右往左往させられてしまう。

 

心は道具で、それは自分だけに使用権がある。

 

そして、それを錆びたままの道具にするか、

磨き上げた道具にするかは自分次第だ。

 

まずは信じることだ。

この世界に一つだけの道具は、必ず自分で使いこなすことができると。

 

心は単なる道具だ。

どんな人生だろうと、一生付き合うことになる道具なのである。

 

その道具を使って、あなたは何をする?