今宵もそのバーには客が足を運ぶ。
いわゆる隠れ家的な存在であるはずのなのに、まるで客が自然とそこを求め、引き寄せられるかのように。
バーのマスターはこの店を開店当初から一人で切り盛りしている。
頭の両側から生えた角と、背中には黒い羽根。
かつては魔王城で勤務していたその男は、定年で引退したことを機に、かつてからやってみたかったこととして店を開いた。
場所は魔王城のすぐ裏手。灯台下暗しとは言ったもので、魔王城勤務の魔族たちはあまりこの店を利用しない。そのような普通に働いている者たちはもっと賑やかな飲み屋に行く。
その代わりにこの店には、いろいろな事情を持った者たちがなぜか集まってくるのだ。
今日も一人の男がカウンターで酒を飲んでいた。マスターは客の顔はよく覚えていたので、この男が初めてこの店を訪れたことはすぐに分かった。
耳も長くない。肌も青くない。角も無ければ、翼もない。
人間だ。人間の青年だった。
彼は体の至るところを怪我していた。
それだけでマスターは悟った。
彼は今日、魔王に挑んで、そして返り討ちにあったのだと。
そのような人間は珍しくない。
人々の期待を一身に背負って、勇者と呼ばれる者。
立身出世のために溢れる野心を持った者。
純粋に魔王と戦いたかった者。
様々な人間が勝負を挑み、そして敗れた。
どういうわけか、そんな人間は決まってこのバーに立ち寄っていく。
当然ここは病院ではない。薬の類は置いていない。
だけど人間たちはここに来る。
体は満身創痍ながら、もしかしたらここで心の傷を癒せると思ったのかもしれない。
魔王に挑むのは自信や野心、少なくとも何かをその心に抱いた者だ。
だが、それはあっさりと砕かれてしまう。
その傷の方が、体の傷より深いのかもしれない。
「・・・マスター」
今日来店した客が、いきなり話しかける。
マスターは短く返事をするだけで、特に何かを尋ねたりはしない。
こういう時は、ただ話を聞いているという意志さえ向ければ、向こうから勝手に話し出すことを彼はこれまでの経験で知っていた。
「俺にはさ、仲間がいたんだ。旅を始めた最初の頃からいっしょにいたやつがさ」
「そうなんですね」
「ダンジョン攻略も、魔物との戦いも、そいつといっしょにやってきた。二人で挑めばどんなこともできると思ってた」
「・・・・・」
「ずっといっしょに旅を続けることはないとは分かっていたけど、それでもその時は急に来た。あいつ、旅の中で訪れたある町で一人の女と出会ってさ、これからはそいつのために生きたいって言い出したんだ」
「旅人の話としてはよく聞く話ですね」
男はマスターの言葉を聞いているのかいないのか、ただ自分の言葉を紡いでいった。
「俺はあいつの意志を尊重した。大切な仲間が新しい道を見つけたんだ。こんなに喜ばしいことはない。だから笑顔で別れたよ」
「結構なことじゃないですか」
「その後さ、俺が魔王を倒すって目標ができたのは。今にして思えば、もしかしたら俺はあいつに嫉妬していたのかもしれない」
「なぜ?」
「あいつが先に幸せを掴んだようで悔しかったのかもしれないな。それで魔王を倒せば、大勢の人から認められて、俺も満たされるって思った・・・のかもしれない。今にして思うと随分バカな話だ」
「いえ、誰にでもある話だと思いますよ。それで、また魔王様にリベンジなさるおつもりですか」
「うーん、それはまだよく分からん。今はただ飲みたい気分だ。マスター、もう一杯くれ」
「かしこまりました。それによく合うおつまみもサービスで差し上げますよ」
魔王城裏のバー。失意と挫折の傷をほんの少し癒してくれるこの場所は、今夜も灯りが消えることはない。