シーンと静まり返った食卓。
わたしは、噛む音にも細心の気を使い食事をしました。
目を合わせないようにしているが、そーっと目を上げると、目の前の祖母が睨みつけている。
ハっ!として、すぐ目を伏せる。
食べ盛りの私の姿は、祖母の苛立ちを更に引き出しました。
「岡田の娘のくせに、よく食べること…」
一人言のようにして、わざと聞こえるように言う祖母。
祖母は、わたしのことだけが憎らしかった。
妹も弟も同じ血をひいているのに、わたしだけが「岡田の娘」と言われてきました。
「わたしはお婆ちゃんの孫でもあるのに、何故わたしだけが岡田の娘と言われるの?」
胸の中で叫びました。しかし、わたしは怖い祖母に、刃向かうことはできませんでした。
まだ幼く、反抗できるような言葉も知りません。
涙が溢れてくるのをこらえ、目の前の祖母に怯えながらの食事。そんな毎日続けてきました。
岡田とはわたしの父。
祖母の義理息子でもあります。
うちは、近所ではちょっと有名なお金持ちでした。
父は愛人を作り、家に帰らなくなりました。
生活費はくれるので、母は離婚したくても離婚しなかった。
実娘がそのような状況になっている苛立ちは、帰らなくなった父ではなく、長女であるわたしがはけ口になりました。
「おまえなんか産まなきゃ良かった!おまえさえ居なければ、あんな男とは結婚しなかったのに!」
父への苛立ちを私にぶつけるのは祖母だけではなく、母からもぶつけられました。
完全に目がイってしまっている母に追い回されて叩かれました。
叩かれて当然と祖父母は私を睨みつけた。
私に逃げ場所はありませんでした。
私は母の娘ではなく、憎たらしい岡田の娘。
祖父母の孫ではなく、可愛い娘を悲しませる岡田の娘。
血は繋がっているのに、父に対する憎悪は長女の私に向けられました。
父は退職して商売を始めました。
高級料亭、高級レストランの味を知り尽くしていた父だから自信があったのだろう。
しかし、舌が肥えてるだけで商売がうまくいくはずはありません。
瞬く間に窮地に追い込まれ、自己破産になりました。
破産した父と一緒にいる理由は、母には何一つなかった。
離婚はエスカレーター式に流れていきました。
人が羨む邸宅を追われ、古くて狭く汚い借家に引っ越しました。
離婚してフリーになった母は、ろくに家にはいなくなった。
祖父母の苛立ちの矛先は、以前より増して長女の私に向かった。
妹・弟は可愛い孫として扱ってくれるのに、私だけが岡田の娘だった。
それでも私は笑うようにしてきた。
祖父母も母も辛いんだと自分自身に言い聞かせ、何を言われてもグッと飲み込みました。
笑っていれば、いつか可愛がってもらえるのかもしれない。
しかし、笑えば笑うほど、祖母の苛立ちを増長させていきました。
大泣きしてワケもなく謝れば許してくれたのかもしれません。
でも「岡田の娘のくせに」というだけの理由で攻撃される。それのどこに謝ればいいのか分かりませんでした。
18歳高校卒業と同時に、15歳の妹を連れて逃げるように家を出ました。
もう限界でした。
幸い弟は、私と違って祖母から溺愛されている。
祖母に睨まれながらの食卓から解放されました。
ゆっくり食事を楽しめる…はずだった。
22歳くらいでしょうか…いきなり、私は人がいるところで食事ができなくなってしまったのです。
もう目の前に祖母がいるわけではないのに、人がいるとスイッチが入ったように喉が締め付けられ、食事ができなくなりました。
唾さえも飲み込めない時があります。
電車にも乗れなくなり、人混みに出ると酷い目眩で立てなくなる。
自律神経失調症になってしまいました。
人付き合いに飲食はどうしても関わります。
自宅に遊びに行けば必ずお茶が出る。場合によっては食事も用意してくれる。
外に遊びに行っても「どっかで食べよう」「話しあるんだ、会わない?」
必ず飲食がつきまいます。
いっさい手をつけない私に友人が気がつく
「そんなに細いのに、まだダイエット?」
私の為にと手料理をふるまわれても、私は手をつけられません。
「一口も食べないなんて、そんなにマズそう?」
(違うの!そうじゃなくて!)
声にならない叫び。
感情を圧し殺して生きてきてしまったからだろうか、言い訳や説明ができない。
普通の人ができる
「言えばいいじゃん」
が言えない。
友人達には明るく、お馬鹿キャラで通してきたから、今さらこんな話しはできない。
話したところで理解は難しいだろう。
みんな当たり前のように親や祖父母の愛情を受けてきた。
主張を全くさせてもらえなかった環境で育ったせいか、主張することができない。
どんなに話しても、きっと私がおかしいと思うだろう。
きっと私がワガママだと思うだろう。
きっと私が小さな事で傷ついていると思うだろう。
きっと「うちの祖母も同じようなもんだよ」と言うのだろう。
きっと分かってはもらえない。
「みんなごめんね…」
私はみんなの前から消えた。
20代の1番遊びたい盛りに、私は友人達の誘いを断り続け、やがて連絡も来なくなった。
遊びには飲食が伴うので、毎回毎回苦しい思いをすることが限界でした。
私は孤独だった。
全てを理解してくれた夫と結婚し、40間近で第一子を授かりました。
ママ友という友人がたくさんできました。
友人ができた…はいいが、またどうしても飲食の付き合いがつきまとう。
仲良くなりたいのに、いつも誘われると、どうしたらいいか分からない。
45歳になって少しは食べられるようになったけど、やっぱり飲み込めない時があって、誘いを断る事が多々ある。
幼少期、毎日家族で食卓を囲んでいました。
それは微笑ましく楽しい時間なはずなのに、私にとっては怖くて緊張で固まる時間だった。
45歳にもなるのに、そのクセが抜けません。
これがトラウマというやつでしょうか。
陽子さんのお話しでした。
僕は聞きました
「正直に話してみてはどうなんですかね?」
「昔の話しからしなきゃいけないし、それもなんだか今だに怨んでいるみたいで…。どのタイミングで話したらいいか分からないし、言ったこともありますが、すぐに忘れられてしまいます…」
何度もヒーリング的なセッションも受けてきたそうですが、何も変わらないそうです。
というわけでブログに興しました。
陽子さんから何十時間もかけて聞いた話しを、なるべくまとめて文章化しました。
陽子さんが長年悩んできた訴えです。
もういい加減誘われた時に、うやむやにして生きるのは疲れたと
「僕がブログに説明して、それをお知り合いとかに読んでもらうって言うのはどうでしょう?」
との流れでした。
陽子さんとは全く縁のない方
付き合い悪い友人がいたとしたら、もしかしたらこんなトラウマを抱えているかもしれません。
陽子さんは昔よりは良くなり、比較的食べられるパターンがあるそうです。
陽子さんの御友人さま
少しは理解できますでしょうか?
今回のブログは陽子さんを助けるため?
違います違います
陽子さん御友人に読んで頂き、ついでにグリンブルーを知ってもらおうという計算です(笑)
営業も兼ねて言いますが、2時間自分のことだけ話すのって、けっこう疲れますよ。
疲れるくらい自分のことだけ話していると、最後には
「まぁいいか」
となります。
陽子さんの場合、どんなに話したって、過去の出来事が無くなるなんてことはないのですよ。
でも「まぁいいか」となった時、自分の辛さや悲しみでさえ笑えてきたりするものです。
辛さや悲しみを、僕独特のツッコミで笑いに変えましょう。
https://ameblo.jp/osamusasi/entry-12411959793.html
道をひらくセラピスト 中和田收ナカワダオサム
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◉relax room MAごころ(まごころ)古河市 代表 関口敦子
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