脳の休養
日曜日。午前中、だんだんと迫る披露宴の日時。フォーシーズンにて打ち合わせ。午後からは、千葉へご挨拶まわり。夜、久々の伝説のgodhand産婦人科医師の森川先生に面会。よく昔、征矢が九十九里の私が谷津さんから借りている道場の二階に寝泊まりしてワイルドさを鍛練しているときに、お食事をご一緒させていただいた。格闘技に相当精通し御自身も相当鍛え上げている産婦人科医師。外房では伝説と化している。征矢がいなくなって何年たつだろう。来る日も来る日も二人して溜め息しか出なかったあの頃。いまとなればすべて周りにスーパーシークレットで行動にでたあの日。親に、兄弟に、仲間に、とにかくすべての人に内密にアクションを起こすことが、よくもまあ右も左もわからぬ勝浦の武大卒業後まもない、昔から髭のこい学生にできたものだ。谷津さんから借りた道場がまたひどかった。台風が九十九里に直撃した次の日なんかは、翌日の征矢は、もはやあんた誰状態。谷啓かとおもうほど。突風に道場の建物があおられ、壁は落ちる、屋根は落ちる、車はない、電気も停電、パソコンはデコレーション、二階は傾き、常時震度二くらいがある。日の出とともに太平洋に反射した強い日差しが目に刺さる。聞こえるのは、雨宿りに避難中の鳥の嬉しそうな歌声と、お腹が空いたの歌を大合唱する五匹の野良猫。不眠の中、また朝から仕方なく藤波さんのコネクションの回転寿司に入る。キッチンでは皿洗いから始めたが、幾度に巻物担当、軍艦担当と出世していく自分に嫌気がさす。こんどきたら握りかた教えると言う店長に、さっと辞表を提出。覚悟を決め、私が起こした事件に行動を共にすることとなる。事件前夜、当日の昼飯、事件後の合流。まさに市ヶ谷駐屯地での三島氏が自決したあの出来事とは比べなくとも我々の決意は相当な覚悟の上であった。私は事件後の翌日の夕刻には満席の成田シカゴフライトをかわし、珍しい名古屋サンフランフライトにてタンパの自宅に帰宅。征矢には、九十九里を離れ長野に帰郷を私は指示した。そして11月からの全日参戦があるわけだが、これは仕組んだのは、れっきとした黒幕は存在した。ボンナカという業界用語も最近では滅多に聞かなくなったが、今まで常に真面目というレッテルを貼られまっすぐにひかれたレールの上だけを走るのにもうこりごりしてたのはたしかにあった。あれからの時を思い起こしてももう状況はかなり変わった。時はすべてを解決してくれる。そんなことを九十九里浜を見ながら一人考えさせられた本日、日曜日。今日は脳の休養になった。