世の中には色んな人間がいる・・・当たり前のように使われるそんな慣用句も、世界の真実をあらわしてはいない。人の認識力が全ての真実を目撃するには、その受容力が足りないのだ。常識的な目には常識的な物事しか見えない。非常識であると認識された瞬間から、その事実は脳の前頭葉によってフィルターをかけられ、加工されてしまうからである。
だが、人の脳は機械ではない。正確さが無いのと同時にその制限の振れ幅は多様に変化する。そして、その非常識が振れ幅の中に入った時、人はそこに奇跡を見る・・・。

目が覚めたときいつものように微かな香りが鼻をくすぐる。その匂いが薫子の思考を覚醒へと導く。
ああ、おなかすいた!
思いっきりよく布団を跳ね除けると、ベットから飛び降りる。自分の部屋を出て台所で忙しそうにしている母親におはようと声をかけると、はやく顔を洗っといでと顔も見ずにたしなめられる。いつものことと思いつつ、朝の身支度をして朝食の用意してあるテーブルにつく。
今日はこんがり焼かれたトーストとオレンジジュースね。
芳ばしい香りが董子の食欲をそそる。
「早く食べちゃわないと遅刻するわよ!」
母親というのは何かと小言を言わないと気がすまない性質なのだ。
董子はいつもそう思うようにしている。別に母親が嫌いなわけでもなく、間違ったことを言われているわけでもないのだが、食事ぐらいゆっくり楽しみたいと思っている。だが現実は厳しい。ちらりと壁掛け時計を見ると、あまり余裕がない事が理解できてしまった。
たいへん!
あわててトーストにマーマレードを塗り、オレンジジュースを一気に飲み干し、トーストをくわえたままカバンを手にとった。
「ちょっと!忘れ物!」
大慌てで玄関で靴を履いていると、母親が弁当箱を手に追いかけてくる。
「まったくこの子はどうしてこんなに忘れっぽいのかね。やっぱりお父さんのせいかしら・・・。」
それは毎度のこと聞かされる父親の失敗談である。董子が生まれる時に産院までの道順を忘れてしまったとか、慌てていたので持っていくべきバックを忘れてしまったとかその程度のことである。
「それともあの時飲んでた栄養剤のせいかしら・・・ああ、生まれた後に使ってたシャンプーのせいかもね。」
ともかく母親の言うことを一々気にはしてられないのだ。
弁当箱を受け取ると、董子はさも行ってきますと言わんばかりに手を振って、扉の外へと逃げ出した。

確かに董子は忘れっぽい。これまで学校の通信簿にも一度たりとも忘れ物のことを書かれなかったことがないほどである。いや忘れ物だけではない。時には大事な学校行事や人の名前すら忘れてしまったことがある。
ちょっと忘れんぼさんなだけじゃない。
董子はそれも愛嬌のうちなどと韜晦してはみても、その度に自己嫌悪に陥るのである。
なぜ自分がこれほどまでに色々なことを忘れ易いのか、理由は全く持ってわからない。
「おはよう!」
曲がり角に差し掛かるとわき道から見覚えのある顔が董子に声をかけた。クラスメートの智川朋子・・・通称トモトモである。董子も反射的に片手を振り、おはよう!と応える。
だが、同時にトモトモの表情が小さく驚きを浮かべ、その視線は董子の足元へと注がれていた。董子は何事が起きたのか理解できずにトモトモの視線の先である自分の足元を見る。そこには家を出るときに口にくわえていたであろうこんがりと焼かれたトーストが落ちていた。
「あっ!」
董子の心はやはり自責の念で満たされる。

「董子ってさ、微妙にいい匂いするよね。なんかコロンでも使ってるの?」
トモトモは鼻をヒクヒクとさせながら顔を近づけてくるが、教室にいる女子の何人かがそれに同意するように頷いている。自分では全く自覚の無いことを言われ、董子はただただ首を傾げるだけである。
「そうそう!なんかさ、董子のそばにいるだけで幸せな感じになるわ。」
トモトモの言葉に同調するように明日菜が言う。なんか拝みたくなるわね・・・とトモトモが言うと一斉にみんながパンパンと拍手を鳴らし、董子に一礼をする。
「やめてよ、まるで仏像みたいじゃない。」
董子はしかめっ面で頬を膨らますが、みんな小波のように含み笑いをしてそれぞれの席へ戻っていく。
私だって幸せになりたいわよっ!
董子にしてみたら今朝のトーストを食べることができずに、空腹のまま二限目まで過ごしているのだ。幸せとは対極の状態なのよっ!・・・と、董子は思っていた。

昼休みになりようやくお弁当を食べることができ、幸せに満たされた董子に明日菜が唐突に話を蒸し返してきた。
「今気付いたんだけど、董子の匂いってさ・・・今はしないよね?」
さっきまで匂ってたのにさ・・・と残念そうに明日菜が言うが、元々自覚がない上にそんなこと言われても戸惑うばかりである。
「ほんとだ!さっきまであんなにいい匂いだったのに・・・。」
トモトモの言葉に董子は少々むっとするが、悪気があっていってるわけではないので表情に出すことは控えた。
「でもさ、今朝は焦ったわよ。まさかトモトモと同じ時間になるとは思わなかったし・・・。」
遅刻常習犯のトモトモは舌をペロリと出し、笑顔でごまかす。
「だからびっくりしてパン落としたわけ?」
まさか口にくわえていたのを忘れたとも言えず、にこりと頷く董子であった。

午後の授業は何事もなく無事に過ぎていった。
「・・・明日までに進路希望調査票を提出するように!」
最後の授業終了後に担任が叫んでいるが、董子には何のことだかわからない。
何だっけ?・・・と聞く董子に、明日菜が少し困った顔をする。
「ほら、先週プリントもらったでしょ?卒業後どうするかってやつ。」
董子にはそんな記憶が全くないが、卒業後と言われてあらためて自分が全く何も考えてなかったことに気付く。まだ高校2年生とはいえ、将来のことを考えてなくてはいけないことは重々承知していた。
「ねぇ、明日菜はどうするの?」
董子は自分の事は棚に上げ、隣で帰り支度をしている親友に聞いてみる。
「そうねぇ・・・多分、短大か専門学校かな。あたしって要領悪いからさ、資格でも取らないと就職できそうにないし。」
友達の大人な発言に驚きつつ、董子はため息をつく。
あたしって何になりたいのかしら・・・?
将来の希望というものをあまり真面目に考えたことがなかったせいか、自分がどうしたいのかが全くわからない。
「あたしは決まってるわよ。」
明日菜の向こうからトモトモも顔を出す。いかにも自慢げに胸を張るトモトモは聞かれもしないのに、二人に断言した。
「お気楽な主婦になるのよっ!」
董子も明日菜も呆気に取られて、一瞬黙ってしまった。
「そんなこと進路調査票に書いたら怒られるわよ。」
明日菜は半ばあきれたように言う。その点は董子も同意見なのだが、トモトモのそんなあっけらかんとした明るさが見ていてすがすがしくも思う。
トモトモは明日菜の肩をたたきながら、大丈夫よ!・・・と言い放つ。
「あたしの意思はカタイのよっ!」

学校からの帰り道で二人と別れ、一人きりになった時、あらためて董子は自分の進路について考え始めた。明日菜の言う通り就職するには資格でも取っていた方がよさげな気はする。だが、資格を取るにしたって、何の資格を取ればいいのか全く想像もつかない。専門学校へ行くにしても短大に行くにしてもある程度の方向性が決まっていないと、どこへ行けばいいのかもわからないのだ。
まあ、これから考えればいいか・・・。
董子はそれほど悩む性格ではない。むしろ悩んでいたことさえ忘れてしまうほどなのである。
でも進路希望調査票は出さねばならない。
どうしよう・・・。
その時、路地から急に車が飛び出してくる。暴走気味なそのスピードに董子は一瞬体を固くした。
あぶないわねぇ・・・。
走り去っていくその車をちらりと見ながら、その路地を曲がると見覚えのある女の子が歩道で座り込み泣いていた。
「どうしたの?怪我でもしたの?」
思わず駆け寄り、その子の顔を覗き込む。その頬には涙が流れている。
「みぃちゃんが・・・みぃちゃんが・・・。」
その子の指し示した先には血を流しピクリとも動かない子猫が、道路の中央に横たわっていた。
その子猫はこの子大事にしていたペットであった。
女の子の悲しみがまるで伝わってくるように、董子の心を締め付ける。董子は思わずその子を抱きしめていた。
「大丈夫よ、みぃちゃんは天国へ行けるわ。」
そう董子がつぶやくと、董子の中で何かがはじけた気がした。それは女の子の悲しみに共鳴しつつ、抱きしめた董子の腕に小さなエネルギーを伝える。
董子の頭の中で起こっている現象は余人には理解のしがたいものであった。脳内に蓄積されていた記憶の一片が、まるで何かに蝕まれるように消えていく。もちろん本人にさえわからない現象ではあったが、その対価とでも言うべき何かが同時に董子の体からまるでオーラのように噴出し始める。もちろん、無色透明なそれを目にすることができる者はどこにもいない。本人にはただただ自覚のないことである。しかし、董子の腕の中の女の子にはその影響が現れたようであった。
「ほんとう?」
女の子の涙は自然と止まっていた。董子を見上げるその瞳は赤く腫れあがっていたが、悲しみは別の何かへと変りつつあるようだった。
「お姉ちゃんっていい匂いがする・・・。」

朝の目覚めはいつも朝食の香りである。董子はいつものように食欲を刺激する微かな香りに、ベッドから勢いよく飛び起きる。
今日はおみそ汁ね。
急いでいつものように身支度を整え、台所へ顔を出す。
いつものように早く顔を洗ってきなさい!という母親の声に、はぁいと生返事をしつつ、洗顔を済ませ食卓テーブルへつく。
目の前には一膳のご飯と大根のみそ汁、そして目玉焼きとウインナ-。
今日も幸せを感じる一瞬を満喫する。
「早くしないとまた遅刻よ!」
母親の容赦ない声はいつものように董子を現実へといざなう。慌てて全てを平らげて、カバンを右手に玄関へと急ぐ。
「忘れ物はない?」
お弁当箱を受け取りながら、母親へ首を振ってみせる。
「あんたはほんとに忘れっぽいんだから、もう一度確認した方がいいわよ。」
この後にいつものセリフが続くことは董子は重々承知している。あわてて玄関の扉から転がり出ると、学校へと走り出した。

昨日と同じく曲がり角でトモトモと遭遇する。今度は董子からおはようと声をかけた。
「どうするか決めてきた?」
そう問われた董子は歩きながら戸惑う。何のことを言われているのか皆目見当もつかないのだ。不思議そうな顔している董子にトモトモは、仕方ないわね・・・と少し困った顔をする。
「あなたもあたしと一緒に主婦になる?」
董子の記憶には進路希望調査票のことなど微塵も残っておらず、戸惑いは増すばかりであった。だが、主婦と聞いて母親のことを思い出すと自然と笑いがこみ上げてくる。
そう言えば、お母さんって幸せだわ。
いつも小言ばかり言っているようでも、割と笑顔が多いのだ。それを幸せと言わずに何を幸せと言うのだ。
そう考えている董子がふふふと笑うと、つられるようにトモトモも笑い出す。
幸せなのが一番だわ!
董子は心の底からそう思っていた。

提出された進路希望調査票の中に、2通だけ不明瞭な進路がかかれた物が発覚し、その二者二様の文言は担任をひどく怒らせることになる。むろん提出者は後でこっぴどく叱られたことは言うまでもない。

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