いつもの藤村です。最近涼しいですね。
今回も今回とて、日本学術会議についてです。
その中でも今回は、論点「日本学術会議は軍事研究を禁じて学問の自由を侵害したのか」です。
察するにですが、高橋洋一の議論とか、
以下の橋下?という人のツイートとかを鵜呑みにしてしまって、
https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1311577278405459968
日本学術会議推薦の6人、任命されず 菅首相に任命権
— 橋下徹 (@hashimoto_lo) October 1, 2020
➡︎学術会議のメンバーに入らなくても学問はできるのだから学問の自由の侵害になるわけがない。むしろ学術会議は軍事研究の禁止と全国の学者に圧力をかけているがこちらの方が学問の自由侵害。学術会議よ、目を覚ませ! https://t.co/C9mUgeJSgY
一次資料探さない病を発症してしまった方がいるのではないでしょうか。
では、その「軍事研究の禁止」とやらは実際どんなんでしょう?
正直、歴史的に振り返らないとならないし、今回の記事は長くなってしまうかもしれません。
頑張ってまとめますので、お付き合いください。
2017年頃、日本学術会議はこのような声明を出しました。
「軍事的安全保障研究に関する声明」です。
これは当時の防衛装備庁が新設した、「安全保障技術研究推進制度」に対する声明となります。
どうも橋下?という人によると、これは「学問の自由」への侵害だというそうです。
どういうことなんでしょうか?見てみましょう。
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最初に、戦争で科学者は何をしたのか、からです。
科学者が科学者という層として動員が行われたのは、第一次世界大戦が最初と言われています。
ハーバー・ボッシュ法でおなじみの「フリッツ・ハーバー」は、窒素肥料の大量生産を可能としましたが、一方で戦争の武器として毒ガス兵器の開発にも勤しみました。
日本でも特に、第一次世界大戦~第二次世界大戦にて科学技術体制を整備、軍事的要請に応じる研究開発をしていきました。
「科学研究費交付金」は1940年~44年で6倍(300万円⇒1900万円)
陸海軍の研究費は42年~45年で3倍(約1億円⇒約3億円)に大幅増されました。
「科学研究費交付金」は今でいう「科学研究費補助金(科研費)」のようなものですが、その申請文書には「いかに自分たちの研究が戦争の役に立つか」という、軍部へ媚びた表現が並んでいました。
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戦後、戦争で科学が多くの人間を虐殺したことへの反省から、日本学術会議は
・1950年「戦争を目的とする科学の研究は絶対には、今後絶対に従わないという固い決意を表明する」声明、
・1967年「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する」声明
を出しました。
1950年に声明を出したのは戦争に対する痛切な反省からです。
総会で「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明」として、「・・・我々は、これまでわが国の科学者がとりきたつた態度について」強い反省の言葉を述べました。
しかし時は朝鮮戦争での再軍備がささやかれる待っ最中。2020年の今と比較しても、再度戦争に巻き込まれる(自ら足を突っ込む)危険性が高かった時代でした。
「そもそも声明文にはどこまで強制力があるのか」「何が戦争を目的とする研究なのか」「民生研究はどうするのか」「基礎研究は軍事研究ではないのか」「お金の出所が軍なら軍事研究だろう」「研究成果を自由に発表できることが大事だ」といった、2017年の際にも議論となった論点は、当時も存在しました。
それからも喧々諤々はありましたが、1967年5月5日、米軍から東大医学部など57件に対して研究費が(1959年から)流れていたことが明らかになったことは大きな衝撃でした。
それも当時、ベトナム戦争において枯葉剤の使われたことが問題化した最中にです。
二度目の声明は、これが契機となって改めて「戦争を目的とする研究はしない」と再確認した形となります。
しかし、1950年の声明も67年の声明も、拘束力や強制力を伴うものではないのです。
目先の予算と名声には勝てず、90年代にも米国防総省空軍科学技術局からの研究助成が行われていることが明らかになりました。
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思うに、当時打ち立てた「軍事研究は行わない」の原則は確かに大事です。
しかし、その原則に立った上で、「民生研究は?」「基礎研究は?」「どこまでが駄目?」・・・といった個別具体的な事例一つ一つに検討を深めなくては、その原則を恣意的に運用され論点をぼやかされ、形式的なものにされてしまうのではないでしょうか。
例えば「GPSも戦争で発展した技術だけど、お前はカーナビ使わないの???」みたいな議論がそれに当たります。
で、一方2017年の声明「軍事的安全保障研究に関する声明」では、これら二つの声明を「継承する」としつつ、それまでの反省もあってか、一定個別具体的な議論と考察を行っています。
本筋は①軍事研究全般の問題点の指摘と、②「安全保障技術研究推進制度」への批判です。
と、ここで「安全保障技術研究推進制度」が何なのか、説明が必要でしょう。
一次資料をあたります。
当時の予算規模はこのくらいです。
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/anzenhosyo/pdf23/anzenhosyo-siryo6-2.pdf
※2020年現在は拡大しているので今の予算規模とは異なりますね。
そして研究はプログラムオフィサー(PO)が進捗管理します。
そして声明では防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」に対する批判として、
「防衛装備庁の職員(編注:PO=プログラムオフィサー)が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い。」
としました。
そうです、研究への介入面にかなり焦点を絞っていますね。そしてそれは防衛装備庁自身が認めています。
「研究の実施中は防衛省所属のプログラムオフィサー(PO)が、随時、進捗を管理」しますと。
防衛装備庁が「管理しますよ」(=介入しますよ。だって僕らの予算で研究してんだから)と認めているのです。
だから「介入が著しいですね」(=憲法23条に反する危険性が高いですね)という、至極至極至極簡単な三段論法となっているにすぎません。
ただ、考察はそれ以上に深く深くおこなっています。
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/anzenhosyo/pdf23/170204-siryo1.pdf
深い議論を行った上で、最大多数の賛成を得られる上記のシンプルな結論を勝ち取ったように見えます。
そして①軍事研究全般についても、表現はかなり慎重に選んでいます。
声明では、「研究の自主性・自律性・そして研究成果の公開性が担保されなければならない」としています。憲法23条「学問の自由」の要素としても、「研究成果公開の自由」の重要性が強調されています。
しかし、軍事的安全保障研究では、「研究の期間内及び期間後に」「研究の方向性や秘密性の保持をめぐって、政府による研究者の活動への介入が強まる懸念がある」としています。
軍事研究は本質的に、クローズド化が求められる領域です。
他の研究一般は、研究公開の自由に基づき公開しあい、世界中の科学者が切磋琢磨し、人類福祉のために高めあうことがあります。
軍事研究は、成果を公開せず、独占し、他国を出し抜き、上を行き、何なら妨害することも目的たりうるでしょう。
軍事研究はどうしても「学問の自由」と矛盾せずにはいられない、いわば宿命を負っているのです。
その宿命を自覚せずに研究をしていたらどうなるでしょうか?前回の記事でも書いたような、原発マネー漬けになって「原発は安全」と唱える御用学者のようになってしまいますよ、と。
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そして、実際日本学術会議の声明により、この予算「安全保障技術研究推進制度」はなくなってしまったのでしょうか?軍事研究をやる自由を根こそぎ奪ったのでしょうか?
残念ですが、そんなことはありませんでした。
2015年に109課題応募・9課題採択、
2016年に44課題応募・10課題採択、
2017年に104課題応募・14課題採択、
2018年に73課題応募・20課題採択、
2019年に57課題+44課題応募・16+5課題採択、
2020年に120課題応募・21課題採択。
大学等からの応募・採択ももちろんあります。
そうです。本声明にも強制力があるわけではなく、その点は人事権を操り拘束と強制を行うスガの一連の策動と異なります。
橋下のツイートをもって、「日本学術会議は軍事研究を禁止しやがったんだ!!」と義憤に燃えていた方、まずは少し落ち着いたでしょうか。
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それでも、1950年声明、67年声明、そしてそれを「継承」した2017年声明は「軍事研究をやりたいという研究者の学問の自由に、圧力をかけている!」と思う方もいるのでしょう。
なるほど、強固に拘束したわけではなくても、「圧力をかけたんだ」と解釈もできるのでしょう。
「学問の自由」について、一部整理します。
「学問の自由」は、橋下の言うような、なんでも好きに研究できるよ☆、なんて浅いことを意味するわけではありません。何なら「学問の自由」の元でも、厳格に制限されるべき学問があります。
「ヘルシンキ宣言」に代表されるような、人体実験への制限は世界の常識となっています。
直近では日本学術会議が「人の生殖にゲノム編集技術を用いることの倫理的正当性について」という提言を出し、「ゲノム編集技術を使う生殖の法的禁止」「臨床応用を目指す基礎研究についても禁止」という言葉を使っています。
「基礎研究についても禁止」という表現は上述の2017年の声明には見られない、極めて重い言葉ですね。ただし鵜呑みにせず、一次資料も見てね。必ず。
科学、学問とは人類史の中で人類の福祉、幸福のために発展するものです。
のべつ幕無し、なんでもあり、なんでも研究して良い、であっていいはずがありません。
時として、倫理に反する研究に対して、科学者の中で研究を禁止・封印・制限を行うこともありますし、予算制度の批判を行うこともあります。
科学者タッカーさんがニーナとアレキサンダーでキメラを作りたい!!!!と言っても、その自由を認めないということです。
ニーナとアレキサンダーどこ行った。
それらをあくまで政府の介入の下ではなく科学者の内部で議論し、禁止・封印・制限・批判を行うことも含め、「学問の自由」なのです。
参考文献
(1-1) 杉本 滋郎 著(2017)「『軍事研究』の戦後史」ミネルヴァ書房
(1-2) 池内 了 著(2016)「科学者と戦争」岩波新書
(1-3) 望月 衣遡子 著(2016)「武器輸出と日本企業」角川新書
(1-4) 中山 茂 著(1995)「科学技術の戦後史」岩波新書
(1-5) 益川 俊英 著(2015)「科学者は戦争で何をしたか」集英社新書
(1-6) 赤井 純治 (2016) 「急進展する軍学共同」雑誌経済 No.246 35-45
(1-7) 小滝 豊美 (2016) 「貧する研究機関と軍事研究」雑誌経済 No.246 46-51
(1-8) 浜田 盛久, 多羅尾 光徳 (2016) 「日本の宇宙開発の歩みと軍事利用」雑誌経済 No.246 52-57
(1-9) 阿戸 知則 (2016) 「防衛装備庁の発足と軍備増強」雑誌経済 No.246 66-81
(1-10) 赤井 純治 (2017) 「『軍学共同』とのたたかいの現局面と課題」雑誌経済 No.258 57-64
(1-11) 多羅尾 光徳ら(2017) 「『軍学共同』と安倍政権」新日本出版社