全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。岩手県の風景になります。


厳美渓    岩手県一関市厳美町滝ノ上    (2017年9月撮影)
昨日載せた厳美渓(げんびけい)ですが、翌朝に人のいない早朝にチビと行った時の写真を載せなかったので、1枚載せて置きます。
北上川土手    岩手県一関市川崎町薄衣町    (2017年9月撮影)
北上川に架かるステキな橋が見えたので
北上川
チビを誘って見に行って来ました。
北上大橋
岩手県一関市と川崎町を結ぶ国道284号薄衣バイパスに架かる橋です。近年の〇〇ブリッジとかいう斜張橋(しゃちょうきょう)も良いですが、自分的にはこのような橋が好きですね。
薄衣の笠松    岩手県一関市川崎町薄衣町
この笠マツは、アカマツの一種で、樹姿が典型的な笠(傘)型を呈しており、その樹形、樹勢ともに良好なうえ、大きさ等すべての面において、本県随一のものである。指定地域内には、三林の老松のほか、七株の幼松が自生しているが、いずれも同種と目され、これ等を含めて県指定されたものである。    (説明板より)
七曲峠    岩手県一関市藤沢町藤沢
岩手県一関市と宮城県登米市の間にある、標高238mの国道456号線の峠です。2017年はここから宮城県に入っているので終わりです。
釜石線    岩手県遠野市綾織町新里    (2018年6月撮影)
ここからは2018年の写真になります。
釜石線    岩手県遠野市綾織町新里
猿ヶ石川を渡るキハ100系気動車を愛宕橋より。自分は気動車を電車と書いて来ましたが、やっぱり電車の方がしっくり来るんだよな!
鍋倉城旧搦手門跡    岩手県遠野市遠野町
阿曽沼氏の時代、城の裏門にあたる搦手門のあったところで、この門は二階造りの「二楼門」であった。門の両脇には土を積んだ土塁が続き、空堀に接し、西方の防備の拠点であった。慶長七年(1602)盛岡南部利直の命令より、「二楼門」を廃し、本丸の西口に平門の搦手門を建て、人の出入の監視と警備にあたらせた。    (説明板より)
搦手門(からめてもん)跡
搦手門とは裏門のこと。下っていくと空堀を抜け西門に至る。門の下方に井戸が二つあった。    (説明板より)
本丸跡
本丸の建物は当初は萱葺きで、慶安年間(1648-1651)の火災以後は柾葺きに改められた。本丸は四方には板囲いの堀が巡っていたようです。
大手門跡
阿曽沼氏の時代は、大手門は二階造りの「二
楼門」であったが、慶長七年(1602)盛岡南部利直の命により大手門を「四ツ足門」に改めた。四ツ足門は扉がついた二本の本柱の前後に四木の控柱がある門である。大手門は本丸の門として重要な場所であった。門の左右は板塀に囲まれ、門をくぐり東側に進むと表玄関の石段があり、登ると城の屋敷が建っていた。屋敷は南北に長い平屋の建物で、屋根は主に茅葺きであった。明治二年(1869)鍋倉城は廃城となり、明治八年(1875)にその他施設構造物は総てとりこわされた。    (説明板より)
三の丸跡
本丸、二の丸と共に貴重な防備の拠点で一族の中舘(なかだて)氏、福田氏の居舘(きょかん)があった。    (説明板より)
遠野市街地
三の丸からの風景です。
なべくら展望台
天守閣を模した展望台だそうです。
展望台からは遠野市街地が良く見えました。
二の丸跡
一族の新田小十郎の屋敷があったところで、現在は南朝の忠臣を先祖にもつ遠野南部家のお霊廟をおまつりしている。    (市HPより)
二の丸門跡
鍋倉城は天正年間(1573~1591)に阿曽沼氏によって築城され、寛永四年(1627)に青森県八戸市から南部氏が入城し、明治二年(1869)までその居城となった。 
割堀跡
本丸には遠野南部氏の屋敷があった。本丸は矢を射る小窓を切った板塀で囲まれ、表門は四ツ足門であった。屋敷の建物は南北に長く、玄関には平たい小石を敷き詰め、屋根萱葺き(一時は柾葺)きであった。敷地には八幡社や蔵、庭などもあった。
空堀跡
鍋倉城は来内川を天然の内堀とし、二の丸・三の丸に重臣の屋敷を配し、馬場や火薬庫を設け、空堀、水溜場などの防御施設を備えた中世の名残を伝える本格的な山城である。    (説明板より)