全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。岩手県の風景になります。
北上川 岩手県盛岡市前九年 (2017年9月撮影)
盛岡市道の舘坂橋からの風景です。
あねっこ橋 岩手県雫石町橋場坂本 (2017年9月撮影)
道の駅「雫石あねっこ」近くにある雫石川に架かる橋です。
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雫石川(しずくいしがわ)
この橋の欄干に鶯宿(おうしゅく)由来と題して「およそ四百年前の天正年間、怪我をした一羽の鶯の脚を癒すために、かーこが温泉の近くに鶯の泊まる宿をつくったことに始まる。『第五話 かーこの話』にちなむ」と有りました。
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秋田新幹線 岩手県雫石町小日谷地
昭和56年10月に完成したこのダムは、洪水調節や発電が行われるほか、工業用水や盛岡市や紫波町の農業用水などさまざまな目的に使われているようです。
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御所湖
雫石川をせき止めて出来たダム湖です。
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江曾一里塚 岩手県花巻市石鳥谷町江曽 (2017年9月撮影)
江曽一里塚は、明暦四年(1658)ごろ、南部重直の命により奥州道中(街道)を路線変更した際、この地に築かれた塚と考えられています。塚は一ヶ所につき道の両側に一つずつ置かれ、榎や松などの樹木が植えられました。現存する塚は東側の一基のみですが、大きさや一里塚の形状から、築かれた当時のまま残っていることがわかります。 (説明板抜粋)
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餓死供養碑縁起
一里塚前にあるこの塚は「藩政時代には、冷害(長雨・低温)や日照り続きで、周期的な凶作や飢饉に見舞われた。中でも元禄(1688~1703)、宝暦(1751~1762)、天明(1781~1788)、天保(1830~1843)の飢饉では、多くの餓死・病死者が出たことから盛岡藩の四大飢饉と言われている。財政難に陥っていた藩は容赦のない年貢取り立てを行い、領民の藩政不信・不満は慢性化し、領内の各地で強訴(ごうそ)や大規模な百姓一揆が頻発した。天保八年(1837)に建立されたこの塔は、街道筋の行路病死者(実に30有6人と伝わる)を憐れんで、村人一同で懇(ねんご)ろに弔った供養碑である」と、説明板にありました。
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旧小原家 岩手県花巻市東和町谷内
旧小原家は花巻市東和町谷内にあり、当地方の一般的な農家の曲屋(まがりや)だったと考えられます。
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にわ(土間)
建築年代は不明ですが、古い時期に直屋(すごや)から曲屋に改造されたものとみられ、住宅の平面や構造などからみて18世紀中頃の建築と推定されています。
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常居(居間)
曲屋は「南部曲屋」と呼ばれるように盛岡藩(南部藩)で馬の飼育が盛んに奨励された江戸時代中期頃に工夫された住宅形態で、母屋に対して直角に馬屋が張り出し、平面形がL字型になる建物です。
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