全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。秋田県の風景になります。


平安の風わたる公園    秋田県横手市金沢中野三貫堰    (2017年7月撮影)
後三年合戦の際の古戦場である西沼を中心に平成3年に作られた歴史公園です。
これから『』内に、説明板の「後三年合戦絵巻」上巻第四段の「雁行(がんこう)の乱れ」の物語になります。

源義家、藤原清衡、清原武衡、清原家衡の像
『八幡太郎義家の軍団は、金沢柵に急ぐ。沼の柵(雄物川町)をすて、金沢柵にたてこもった家衝、武衡を攻めるためです。
源義家(みなもと の よしいえ)像
途中の仙南村山本地区一帯や甘辺川原の葦原には、義家軍の本隊が通り過ぎたあとを背後からふい撃ちにする作戦で、清原軍の兵が潜んでいます。清原軍の放った伏兵はより抜きの勇者ばかり三十余騎。
藤原清衡(ふじわら の きよひら)像
秋色に染めたススキの原に身を潜め、息をころしてじーっと待っている兵の姿が静寂をただよわせています。伏兵があることをも知らない義家軍が

清原武衡(きよはら の たけひら)像
この地にさしかかろうとした時のことです。西沼の上を雁が一列に並んで飛んでいくのがみえました。ところが突然、その列が乱れたのです。
清原家衡(きよはら の いえひら)像
これをみた義家は「まて、なにかあるにちがいない。くさむらの中を探してまいれ」と家来に命じました。兵たちは葦原の中に馬を乗り入れます。
西沼
空には列を乱した雁が悲しげな目をして舞っています。ここで場面に目を向けてみると、右手軍団の先頭に竜頭の兜をつけた武将がみえます。
雁(かりがね)橋
義家です。きりっと口元をむすび、大きな目は雁の乱れる大空を見すえています。従兵の目も空の一角をにらんでいます。
雁橋
左手に目をむけると、ふいを突かれた清原兵が葦原の中で負傷している姿があります。両軍の頭上を乱れながら舞う雁のおびえたような目が、戦いの成り行きを物語っているようです。
雁金橋
かつて、兵学者である大江匡房に「器量は良いが合戦の道を知らない若武者だ」といわれた義家は、「兵が野に伏する時には雁が列を乱す」と匡房から学んだ兵法を思い出し、危機をのりきったのでした。
雁橋
この「雁行の乱れ」の逸話は、文武両道であらねばならないという武将のたとえ話として、広く伝えられています』
斉内川 秋田県大仙市長野高畑    (2017年7月撮影)
道の駅「なかせん」裏手の風景です。
田町武家屋敷通    秋田県仙北市角館町田町上丁    (2017年7月撮影)
芦名(あしな)家が1620年に町造りをした時に、内町の武家屋敷群とは別に、町の南側地区「田町」に、秋田藩主佐竹氏直臣から禄を貰った武士80旗の武士が住んだ場所です。
河原田家門    秋田県仙北市角館町東勝楽丁
河原田家は、関ヶ原の戦い後に芦名氏の重臣として角館(かくのだて)に移り、その後は佐竹北家に仕えました。
河原田家
明治以降も学者や政治家を輩出し、第16代当主 河原田次重は、私財で水力発電事業を手掛けるなど地域の発展に貢献しました。現在の家屋は明治24年に建てられた家のようです。
岩橋家
岩橋家は芦名家の重臣で、禄高は75石。芦名氏断絶後角館支配となった佐竹北家に召抱えられその後廃藩になるまで仕えました。この屋敷は江戸時代の末期に改造、屋根の萱葺もさらにその後の改造で現在のように変わりました。
青柳家
当家は天正八年常陸国青柳和泉守より続く、角館を代表する武家屋敷です。三千坪の屋敷は植物園のように草木に覆われ、その中に六つの資料館・武器藏・青柳庵・鄉土館・武家道具館・幕末写真館・ハイカラ館がございます。万延元年建立の薬医門からご入場され、安永二年建造の母屋を通ってごゆるりと御散策ください。
石黑家
角館で現存する武家屋敷では最も古く、勘定役を務めていた最上級武士の家屋。唯一座敷に上がって、武家の生活様式(歷史・文化)について案内を聞きながら見学できる。現在も直系の子孫が住み続け、一部を公開。
桜並木 秋田県仙北市角館町小勝田中川原
桧木内川(ひのきないがわ)の堤防土手にある並木通りですね。
表通り    秋田県仙北市角館町表町下丁
武家屋敷が立ち並ぶ通りは、「内町(うちまち)」と呼ばれ、現在も江戸時代末期時の屋敷割や、母屋・門・蔵の屋敷構え、枡形など武家町の特性をよく残しているようです。
松本家    秋田県仙北市角館町人形町
松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移った。今宮家組下は武家屋敷(内町)から離れた田町に集団で住居を構えたので、松本家も当初は田町に住居したが、後佐竹北家の組下となり現在の小人町に移り今日におよんでいる。松本家は郷校弘道書院の教授を勤め烏帽子於也(えぼしおや)(仙北市指定文化財)の著者として知られる須藤半五郎を出している向学家であった。屋敷は万延元年(1860年)作製による屋敷割絵図(仙北市指定文化財)に表六間裏十五間とあり、現在はほぼ同規模で遣っている。
小野田家    秋田県仙北市角館町東勝楽丁
佐竹義宣の秋田への国替えに、常陸(ひたち)より少し遅れて移ってきた小田野氏は、今宮弾正の配下となり、角館の菅沢町(現在の田町武家屋敷)に居住した 。小田野氏は角館に入って分家をつくり、ここの小田野主水家は長右衛門家から分かれた清右衛門家である。
玄関
両家とも佐竹北家組下に変わり、解体新書の挿図をはじめ蘭画で名高い小田野直武は長右衛門家の人であり裏町に住んだ。ここの小田野氏は、主水を代々名乗り、武芸に秀でていた。九代藩主佐竹義和が 、文化八年(1811年)角館を訪れた折りに小田野主水直政(19歳)は、藩主御前で武芸を披露している。
座敷
また、眼科医としても名をなし 、安政二年(1855)江户で出版された「東講商人鑑」の「羽州仙北角館之図」の広告欄に眼科の名医として小田野主水が紹介されている。建物は明治三十三年(1900)の大火で主屋が消失したが、その後再建された主屋の間取りは近世武家住宅そのままである。屋敷の特徴としては、薬医門から玄関までの灯台躑躅(どうだんつつじ)と、黒塀にそって熊笹が生い茂っていることである。
かんぬき錠
昔の我が家の雨戸もこの鍵だったように記憶しています。なお、家の説明等は説明板及び市のHPを抜粋、参照にしています。