全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。秋田県の風景になります。


藁人形    秋田県湯沢市小野二ツ森    (2017年7月撮影)
湯沢地区交通安全協会の人達が作った「交通安全無事故祈願」の人形。

朝市通り    秋田県横手市増田町増田    (2017年7月撮影)
増田の朝市は、何時頃から開かれたか詳かでないが、増田土肥館の武士達が日常生活を営むため、物資の調達が行なわれ。城下町として発達したと考えられている。史記によると、「寛永癸末(みずのとひつじ)20年(1643)増田町始」とあり、江戸初期から開設されていたことが伺える。    (説明板抜粋)
狸々祭(しょうじょうまつり)    秋田県横手市十文字町西上    (2017年7月撮影)
この日は雨模様だったので
十文字文化センターでの開催だったようです。
増田通覚寺の住職である天瑞師(てんずいし)が、文化8年(1811)、旅人の道しるべにと「猩々の左は湯沢 右はよこて うしろはます田 まえはあさ舞」の歌を刻んだ石の猩々像を建立したのが「猩々の道標」の始まりだそうです。
この祭りは、旧十文字町発展のシンボル「猩々の道標」の誕生を語り継ぐお祭りとして、開催されているようです。
横手川 秋田県横手市大沢
国道107号線の大沢大橋からの風景です。雨の後で水量も多く、水も濁っていますね。
あいのの温泉鶴ケ池荘 秋田県横手市山内土渕鶴ケ池
ネットで情報を調べたら、あいのの温泉鶴ヶ池荘は2021年1月4日より休業中とありました。自分がこの温泉に入った時は、風呂の窓からは
鶴ケ池
この池が見え、池に咲いていた睡蓮の花が見えましたよ。
景正功名塚(権五郎塚)    秋田県横手市金沢中野
金沢公園にあるこの塚は、説明板によると「後三年の役にわずか十六歳で初陣し、すばらしい手柄をたてた鎌倉権五郎景正が、将軍源義家の命により敵の屍をこの地に手厚く葬り、弔いのため塚の上に杉を植えました。九百年の歴史を語る巨木となりましたが、昭和23年火災にあい、幹だけを残し今なおその昔を物語っています。金沢公園はこの功名塚を中心にして設けたものです」と、ありました。
御野立所(おのだてしょ)跡    秋田県横手市金沢安本館
昭和天皇が皇太子時代に横手平野をご覧になった場所だそうです。
横手平野
先に見える山は鳥海山です。
武者走り    秋田県横手市金沢中野金洗沢
金沢柵(かねざわさく)址しにあるこの場所は、説明板によると「八幡宮の南西に位置し、西の丸を取り囲むように造られているのが武者走りと呼ばれる堀切跡である。特に西の丸東側の傾斜は緩く、攻められやすいため、多くの守備の兵が配置され、その移転や伝令のために使用した通路ではないかとも考えられる」と、ありました。
西の丸跡
金沢柵とは、平安時代頃に現在の秋田県横手市金沢にあったとされる戦国時代の山城「金沢城」があった場所のようです。
兜杉
この杉は兜杉と呼ばれ、根周り7.45m、目通り5.50m、枝下高7m、樹高約26mもあり、樹齢およそ九百年とも伝えられていました。また、この兜杉は八幡太郎義家が凱旋のとき、愛用の兜を埋めて石をその上に置き、そばに記念のため藤原清衡(きよひら)が植えた杉ともいわれていました。昭和58年1月、失火により焼失するまで、市の天然記念物に指定されていました。    (説明板より)
金澤八幡宮
寬治7年(1093年)後三年合戦(1083年~1087年)の後に源義家の命をうけた藤原(清原)清衡によって石清水八幡宮の神霊を勧請して建立された。祭神は、八幡三神誉田別命(ほんだわけのみこと)、息長帯姬命(おきながたらしひめのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)等である。江戸時代には義家の弟である源義光の末裔である佐竹氏が秋田藩主となったため厚く信仰され慶長九年(1604年)以来十数回の修改築がなされている。    (説明板より)
兵糧倉跡
金沢柵の米倉の跡と思われ後三年の役の兵火にかかり焼失した糧食の炭化したものが今でも土中より出てきます。焼米は明治天皇をはじめしばしば高貴の方々のご覧に供しています。    (説明板より)
本丸跡
しばしば出てくる後()三年の役(えき)とは、前九年の役で功のあった清原氏は、安倍氏に代わって陸奥や出羽で大きな力を伸ばしますが、内部の勢力争いから内紛が、後三年の役に発展していきます。
北の丸跡
平安時代後期、前九年の役で勢力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守(むつのかみ)の源義家(みなもとのよしいえ)が介入し、藤原清衡(きよひら)を助けて清原家衡(いえひら)・武衡(たけひら)を滅ぼした戦いのことです。
二の丸跡
源義家が藤原清衡を助けて平定すると、源義家は東国で基盤を築き、奥羽(おうう)での地盤を引き継いだ藤原清衡はのちに平泉を根拠地に強大な勢力を築きました。    (日本史辞典参照)
納豆発祥地碑
金沢の柵を含む横手盆地一帯を戦場とした後三年の役(1083~1087)八幡太郎源義家と清原家 衡、武衡との戦いで歴史に残る壮絶なものであった。この戦いの折り農民に煮豆を俵に詰めて供出させた所
大雨の傷跡
数日をへて香を放ち糸を引くようになった。これに驚き食べてみたところ、意外においしかったので食用とした。農民もこれを知り自らも作り、後世に伝えたという。    (説明板より)