全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。茨城県最後の風景になります。


空堀(島崎城跡) 茨城県潮来市島須    (2020年12月撮影)
島崎城跡の散策は昨日の続きになります。

空堀
この城跡にはたくさんの空堀がありました。
虎口(こぐち)跡
虎口とは中世以降の城郭における出入り口のことで、「こぐち」には狭い道・狭い口という意味がある。「小口」とも書く。「虎口」とよむ場合は、中世の戦場や陣地における危険な場所を意味するそうです。 
桝形虎口(ますかたこぐち)跡
枡形とは「四角い形」で、枡形虎口は「四角い形の出入口」ということになります。
二の曲輪(西)跡
さて、島崎城跡の説明板によりますと
土塁跡
島崎城は鎌倉時代初期常陸大椽(ひたちだいじょう)氏の一族行方宗幹(なめかたむねもと)の第二子高幹(たかもと)が島崎氏を名のり
二の曲輪(東)跡
以来四百年間歴代の居城として、武威を誇った。1591年(天正18年)佐竹義宜(よしのぶ)により十七代城主島崎義幹(安定)が滅ぼされ島崎城は廃城となった。
八幡台跡
城は室町中期頃の城とされ、鹿行地方を代表する城郭である。
土橋跡
台地先端に一の曲輪、二と三の曲輪が連郭し、外構を設けている。
馬出し曲輪跡
三の曲輪の外周外堀は斜面に立ち上がり、複雑に屈曲している。
腰曲輪跡
三の曲輪の外周外堀は斜面に立ち上がり、複雑に屈曲している。
帯曲輪跡
外構(そとがまえ)は、古宿(ふるじゅく)と呼び空堀もある。
坊主屋敷跡
大手口は西側に表門、搦手(からめて)口は東北に金井柵、一、二の曲輪間の麓部(ふもとぶ)を根小屋という。 
物見台跡
表門周辺は古屋(こや)、西出城付近を宿(しゅく)、南にかけて芝宿(しばしゅく)といい、集落の発達過程を示している。
三の曲輪跡
これまでの発掘調査によると、火炎の跡・庭園遺構・石塔による暗渠(あんきょ)石積・空堀底・乱杭・水溜めの粘土遺構・井楼矢倉(せいろうやぐら)か隅櫓(すみやぐら)が検出され、水の手曲輪(くるわ)が井戸と共に現存する。
切岸
このように島崎城は中世から近世へつながる・貴重な史跡である。と説明板にありました。
井戸
腰曲輪跡付近からチビが登場していません。
大堀跡
はっきりとした記憶はありませんが、多分この城跡の縄張りが広く、2ヶ所の見学コースが有ったからだと思います。
大堀
これにて、茨城県の風景は終わりになります。