全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。千葉県の風景になります。
君ケ浜 千葉県銚子市君ヶ浜 (2017年1月撮影)
2017年の初日の出を待つ人達です。
初日の出
水平線の辺りは雲がかかっていたが、その雲の上に朝日が出て来ました。右の灯台は犬吠埼の灯台になります。
獅子舞 千葉県旭市イ (2017年1月撮影)
道の駅「季楽里あさひ」にて、日本のお正月ですね。
八鶴亭 千葉県東金市東金 (2017年1月撮影)
1885年(明治18年)に旅館として開業。一時期は千葉の三大旅館と称されたらしいが、2006年からは日本料亭八鶴亭として営業、2021年3月に料亭も廃業となった。しかし、2021年5月より建物の一部が貸し出され、「レイクサイドレストラン八鶴亭」として営業しているようです。
八鶴湖(はっかくこ)
八鶴亭の前にある湖は、1614年(慶長19年)に徳川家康が土井利勝に命じて造成した宿泊所「東金御殿」(現:千葉県立東金高等学校敷地内)を築造の際に、御殿からの眺望をよくするために中心にあった池を広げ、「谷池」「御殿池」「八鶴池(やつるいけ)」と呼ぶようになり現在の八鶴湖が誕生したとされている。
千葉ダルクの演舞 千葉県東金市田間 (2017年1月撮影)
道の駅「 みのりの郷東金」にて。ダルクとは、薬物依存症者アルコール依存症など薬物依存症問題のある人の為の回復施設として活動している団体。
松の湯 千葉県東金市東金 (2017年1月撮影)
この近くに行った時にお世話になる銭湯。八鶴湖近くにあります。
九十九里ビーチタワー 千葉県九十九里町不動堂 (2017年1月撮影)
九十九里の不動堂海岸に建つ、巻き貝をモチーフにした高さ22mの塔の展望台。
一松海岸 千葉県長生村一松戊 (2017年1月撮影)
一松海岸を200mにわたり海水浴場として整備されているようです。
女堰(おながせき)神祠 千葉県睦沢町上之郷 (2017年1月撮影)
女ヶ堰と人柱伝説
女ヶ堰は睦沢町の中央を貫流する瑞沢川の中流部をせき止めて造られ(おじゃが池)、この地域の農業用水として重要な働きをしている。女ヶ堰に不思議な伝説が伝えられている。日照りに悩まされていた昔、田に水を引こうと川をせき止めて作ったものの、豪雨が来て押し流されて工事は成功しない。そこに旅の僧が来て、「明日の朝、始めてここを通る女を人柱にせよ」と言って立ち去った。夏の夜が明けると、見かけない女が青梅を握る子供を背負って土手を眺めていた。村人は女をとらえて、泣き叫ぶのもかえりみずに子どもとともに埋めてしまった。それから、どんな大雨が来ても堰は崩れることはなくなった。村人たちは、こうして出来上がった堰を女ヶ堰と呼ぶよになった。
おじゃが池
のちに、女を埋めたあたりから梅の木が伸びてきて実を付けた。これは子供が持っていた青梅が芽を出したものといい、梅の実は子どもが食いかけの形をしていたことから、この梅の木を「片ふた梅」と呼んだという。人柱が史実として確認はされていないが、日照りになると水不足に悩まされていたこと、堰工事が困難だったことがうかがわれる。この伝説を伝えた梅の木は第二次大戦後まもなく枯れてしまったが、明治41年10月29日に地元の人々によって建てられた「女神」と刻まれた供養碑が残っている。(説明板より)
大原海水浴場入り口 千葉県いすみ市深堀 (2017年1月撮影)
ここをくぐって行くと大きな駐車場があります。
大原海水浴場
大原海水浴場は、日在浦(ひありうら)海岸に約300mに渡って砂浜が広がります。
月の砂漠記念公園 千葉県御宿町須賀 (2017年1月撮影)
記念公園の中にある「月の沙漠記念像」は、童謡月の沙漠の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像とのことです。
月の沙漠記念像
大正時代に活躍した詩人で抒情画家の加藤まさをが書いた『月の沙漠』は、御宿の海岸をモデルとしたようですね。
御宿中央海岸
網代湾には、中央海水浴場を真ん中にして右に浜海水浴場、左に岩和田海水浴場があります。
川津漁港 千葉県勝浦市川津 (2017年1月撮影)
この付近にはたくさんの漁港がありますね。
官軍塚 千葉県勝浦市川津
慶応4年(1868)から明治2年(1869)にわたる戊辰の役で、旧幕府の脱走軍は北海道の五稜郭を占領し、海軍副総裁・榎本武揚を総裁として官軍に最後の抵抗を試みた。維新政府からこの鎮圧を命じられた弘前藩主津軽承昭は、 これを容易に平定することができずにいたので、弘前藩主の実兄である熊本藩主細川韶邦は、寺尾九郎右衛門を長とする藩兵350人を援軍として向かわせることにした。彼等は品川で米国の大型蒸気外輪船「ハーマン号」を雇い入れ、米国人乗組員80人とともに北海道へと出航したが、明治2年1月3日(旧暦)の夜、勝浦川津沖で大暴風雨に遭い難破してしまう。それは藩兵200余人と米国人乗組員約20人が死亡するという大惨事であった。官軍塚は遭難事故の救助に当たった地元川津の人々が、冥福を祈って遭難者を埋葬供養した場所であり、明治維新史を具体的に物語る史跡である。 (説明板より)