全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。東京都の風景になります。
東馬出 東京都八王子市高月町 (2021年3月撮影)
昨日の続きで、滝山城跡の散策になります。この城は合戦が何回かあったようです。
二の丸跡
天文2年の滝山合戦
天文2年(1533年)、北条氏綱、鶴岡八幡宮造営。定久等費拠出を拒み、滝山城の口実を与えたか。
遊歩道
天文5年(1536年)北条氏康、武田の加勢を得て滝山城攻撃か。(北条記・甲陽軍鑑本編巻九・甲陽軍鑑末筆下巻上)。
腰曲輪跡
なお、前述のように永禄年間築城説を採るとまだ存在しない滝山城を攻めることはできないため、大石氏の別の城攻めなのか、後世の創作かと言う問題が発生する。
中の丸跡
また、天文4年(1535年)に北条氏が甲斐に侵攻して武田氏と戦っており、両氏が和睦をするのは北条氏康と武田信玄に代替わりをした後であるという別の問題も存在する。
多摩川(城からの風景)
天文21年の滝山合戦
天文21年(1552年)、長尾景虎方と後北条氏方が滝山城方面にて交戦。
引橋
ただし、この年の長尾軍の南下(謙信の初めての関東出兵でもある)は、上野国内に止まっており、西武蔵方面で実際に戦闘があったのか不明。
引橋からの風景
永禄12年の滝山合戦
永禄12年(1569年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍約2万人が滝山城の北側の拝島に陣を敷き
本丸跡
別働隊の小山田信茂隊1千が未整備の間道(甲州街道の前身)を通り小仏峠から進入、これに対し北条氏方は廿里で迎撃したが一蹴された(廿里古戦場)。
井戸
後北条氏方は予測外の方向より攻められた為、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。
井戸
しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったともいわれているが、真相は謎である。
霞神社
なお、滝山城の三の丸や中の丸まで、落城寸前まで攻められたとは、江戸期に書かれた甲斐の武田氏の軍記物語【甲陽軍鑑】や【武田記】が書かれたよるものである。
本丸跡
しかし、氏照本人が永禄12年10月24日に、越後の上杉輝虎の家臣山吉豊守および河田重親に宛てた書状によれば、滝山城の城下町である宿三口で戦いが行われたと書かれているが、実際は不明である。(上杉家文書より)