全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。静岡県の風景になります。


黒船サスケハナ    静岡県下田市外ヶ岡    (2014年11月撮影)
ペリーの黒船来航をモチーフとして復活させた観光遊覧船です。

新下田橋 静岡県下田市武ガ浜
1958年に完成した新下田橋は、橋の四隅に高さ1.5m、長さ2.1mある人魚像があることから、「人魚橋」の愛称がある。作者は西伊豆町の彫刻家故「堤達男」氏によるものです。
宝福寺    静岡県下田市一丁目
ぺリーとの間に結ばれた和親条約付錄下田条約交渉の際の日本側全権の打合せ場所ともなった。ロシア使節プチャー チンが下田に来航し、日露和親条約交渉の際も応接掛筒井政憲や川路聖謨等の協議が当寺で行われた。
平野屋    静岡県下田市3丁目
 開港当時に建てられた古民家で、下田最古と言われるなまこ壁が残っているこの家は、カフェレストランとして営業しているようです。
ペリーロード    静岡県下田市3丁目
幕末、黒船により来航したペリー提督一行が了仙寺で日米和親条約付録下田条約締結のために行進したのがこの道のようです。
稲尾沢川(いのうざわがわ)    静岡県下田市3丁目
下田市街にある尖った山は、火山の中心にあったマグマの通り道が姿を現した下田富士です。
下田港
左に「みさご島」、右端に「犬走島」。この港に、ペリーの乗った黒船が幕末に来航したのですね。
了仙寺    静岡県下田市3丁目
嘉永七年(安政元年1854)三月、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所 となり、同年五月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休息所となった。    (説明板抜粋)
唐人お吉の籠
「唐人お吉」のモデルとなった斎藤きちが、初の駐日米国領事タウンゼント・ハリスの看病に行ったというのは史実に残る本当の話です。しかし、そのために恋人との仲を引き裂かれたとか、外国人と関わったことで差別され、死に追いやられた…というのは、どうやら物語上のエピソードで、決して真実ではなかったようですね。
洞窟古墳
寺の背後の海蝕洞窟から人骨・玉類・ 金銅製の腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが 出土した。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。    (説明板抜粋)
青野川    静岡県南伊豆町下賀茂    (2014年11月撮影)
ゆけむり橋から見た夕景。湯けむりが立ち上がっていますね
宇留井島    静岡県南伊豆町伊浜    (2014年11月撮影)
夕日ヶ岡丘展望台からの風景です。
旧大沢学舎    静岡県松崎町大澤    (2014年11月撮影)
明治6年(1873年)に、大沢村の依田佐二平が私財を投じて自宅内に洋風二階建ての公立小学校「大沢学舎」を建設し、開校した建物。
三聖会堂
三聖人とは、幕末の漢学者である土屋三余、明治期の実業家として名を馳せた依田佐二平、その弟で北海道 十勝平野の開拓者である依田勉三という、幕末から明治期にかけて活躍した松崎出身の3人の偉人たちのことです。
館内
旧大沢学舎も三聖会堂も道の駅「花の三聖苑伊豆松崎」の敷地内にあります。