<セロファン先輩、その二>

入学して半年が過ぎ、トランペットもそれなりに上達したと自分では思っていた。秋の学校祭に向けて、合奏練習の時間が多くなってきたのだが、それとともにセロファン先輩が来る頻度も増えてきた。そして相変わらず僕にぴっぴ奏法を強いる日々が続いていた。でもそのころの僕は、できるだけリラックスして吹いた方が楽であり、何よりもいい音が出るコツってものを自分で摑みつつあった。だからセロファン先輩のぴっぴ指導はまったく邪魔で嫌で迷惑だった。

 

少人数だったので、この部のトランペットパートは僕の他に三年生のトザワ先輩一人だけ。トザワさんは俳優になってもおかしくないくらいのイケメン、ちょっとコワモテだが女の子にモテモテ、そんなルックス。しかもサッカー部から試合のたびに助っ人の呼び出しがあるスポーツマンで、ガタイもでかい。

セロファン先輩はトザワさんにはノータッチ。僕への濃厚指導は一年坊主だからなのだろうが、だとしたらトザワさんだってぴっぴ奏法していなきゃ間尺にあわない。きっと怖くて口を出さないのだ、と最近になってそのことに気づいた。なんとなくセロファンの弱点を知ったような気がして、ちょっと嬉しくなった。

 

面白いもので、弱点をひとつ発見すると、それまでは知ろうとしなかった、知りたくもなかったセロファン先輩ってどんな人?みたいなものを観察し始めていた。鬱陶しいくらいにまとわりつく対象は僕だけで、それ以外の部員に対しては学年関係なく割とやさしい。そうか、セロファンと同じ楽器を担当したために僕ひとりが背負わなければならない宿命だったのだ、僕さえ我慢すれば他メンバーは幸せなのだ、なんてブッダみたいなことを考えては自分に酔いしれていた。現実逃避みたいなものだったのであろう。

 

ところで、この部の顧問はワタベという男先生なのだが、実際の指導をしているのは音楽教諭のユキ先生だった。ユキ先生はこの春に音大を卒業してすぐ、この学校に赴任してきた。決して美人ではないがいわゆるベビーフェイス。むしろ発情期の男どもが放っておくわけがないタイプ。だがしかし、顔に似合わずユキ先生は格闘技マニアであって、大学時代は空手部に所属していたらしい。知らずにちょっかいを出した、とある若い男性教諭が大変な目に遭ったという噂がまことしやかに流れていて、“可愛いけれども手を出すとヤバい不思議な女音楽教師伝説”が生まれつつあった。

 

しかし残念ながら、いやぜんぜん残念ではないか、これらはセロファン先輩の知らぬところであった。レジェンドOBであり、しかもトランペットの名手である自分にとって、新任ベビーフェイス音楽女教諭なんて赤子の手をひねる様なものと思ったかどうかは知らないが、学祭の準備たけなわのころ、「セロファン先輩」「ユキ先生」「果敢」「無謀」の四つの単語が渦巻く噂が流れ始めたのであった。そして学祭無事終了、あーやれやれと安堵しているところに、五つ目のワード「撃沈」が我が吹奏楽部に届いたのであった。

そこで僕はこれら全ての単語を正しく並べて文章を成立させることができた。やがてセロファン先輩はぷっつりと来なくなり、僕は現代国語の試験で満点を取った気分になったのを、今でもはっきりと思い出すことができる。