出す、ということについての考察、といっても、自ら能動的に体から排出するというものに限ってのことであります。

たとえば包丁で手を切ったときの出血だとか、殺意を持ったやつにナイフで腹を切られて出てくる内臓だとか、ぼったくりバーで法外な請求書を見た瞬間に飛び出る目玉とかとではなく、自らが出したくて出すもの。

あらかじめ申し上げておきますが、これらは総じてきれいなものではない、というか、はっきり言って「汚ねぇ!」とカテゴライズされるものでござる。

 

すなわち大便小便、さらには便の愛称(とは言わないか)である「く」と「そ」の二文字が末尾についている目・耳・鼻から出てくるもの、それらのことですよ。ひとことで言うと「排泄物」…汚いうえに回りくどくて恐縮の極みでございます。

 

で、それらの共通点を考えてみました。すでにお気づきの方もおられるかもしれませんが、そうなのです、これらのブツが出てくるとき、出すときはできるだけ孤独でありたい、ブツは人には見られたくない。それなのに出てきたときの体感は非常に気分良く、さらには出てきたものの見事さに目を見張ってしまう、という矛盾を抱えているといえましょう。孤独を望んでいる、しかしその快感を分かち合えないというジレンマ。困ってしまうほど奥深いものなのですね。

 

次に、個別案件について述べたいと思います。

たとえば「大」。ことを終えて個室から出てくる際の感想が「本日はロケットダッシュのように出てきたぜ」というのと、「なんかまだ潜んでいやがるなぁ」では、その日それからの気分がまったく違ってくるし、仕事や学業にまで影響を及ぼすといっても過言ではない。

たとえば「小」。想像してみてください。尿意でパンパンに膨らんだ膀胱を抱え、やっとたどり着いて飛び込んだトイレでほっとしたのものの、チロチロとしか出てこなかったときのもどかしさ。もどかしいなんてものじゃねぇ、と当事者の皆さまの怒りの声が聞こえてきそうです。かく言うわたくしもその領域に入りかけたので、実感込めてしまいました。

たとえば「耳」。これは中島らもさんのエッセイで読んだのだが、ギターデュオ「ゴンチチ」のチチ松村さんはいろいろと変わったものをコレクションされているとか。その中に特大の「耳これ」があるそう。でも、それを大切にとっておくのってわかるような気がしますよね、ってあなたもうなずいたでしょ。

たとえば「鼻」。何気なくさり気なく鼻をいじっているとき、ふと穴の中に「鼻これ」の存在を確認したとしましょう。会議中とか授業中とか周りに人がいたとしても、なぜかどうしても今すぐその実態を確かめたくなる、そんな経験ありませんでしょうか?別にムズムズするわけでもなく我慢すればできるのに、それがあると分かっただけでじっとしていられなくなる。大の大人が鼻の穴に指を突っ込んでいる姿は人に見せられるものではない、それくらいの常識は持ち合わせているのに、なぜだろう「鼻あれ」はそれを許さないかの如く「はよほじくれよ」と迫ってくるのです。

最後に「気体系」について。ゲップはお行儀が悪いものではありますが、意に反して出たとしても「あ、失敬」とかですまされますが、ここでは下半身発のものについてです。すなわち「は」行「え」段の一文字…だから「屁」だってば。常々不思議に思うことがありまして。たとえば野郎どもがワイワイとたむろしているときに、その中の一人が「ぶっ!」とか出してしまい、「悪い悪い、屁だけにへへへ」とか謝られたとしても僕ならば「くせえだろっ!」って怒り心頭でそいつに食ってかかることでしょう。でも、ひとりで部屋にいるときに出てしまった「マイ屁」はまったく平気で、それどころか体調とか食べたものことなどに思いを馳せるため積極的に嗅いだりする…この違いってなんなのでしょうかね?でもこれって、今まで述べてきた「出すもの」すべてに通じることではないでしょうか、へへへ。以上です。汚くて本当にごめんなさい。