☆愛の相場師
「岩本栄之助」

岩本栄之助
北浜の恩人、男気あふれ地元で尊敬されていた。
大阪中央公会堂の建築資金全額を寄付。建物完成は岩本39才死亡の2年後。

1877年(明治10年)「岩本商店」を営む岩本栄蔵の次男として大阪に生まれる。
1904年(明治37年)日露戦争に出征
し無事帰国。
1906年(明治39年)兄の急死により
家業の株式仲買商の後継ぎになる。
1907年(明治40年)日露戦争後の好景気により株価は高騰。
北浜の仲買人達は、株価が下がると見てこぞって売り向かう。
ところが、株価が下がらず仲買人達は破産を恐れる。
そして、仲買人達は岩本栄之助に助けを求める。
栄之助は、「いいでしょう、皆さんには父の代から30年もお世話になっています。協力しましょう。」
栄之助は、「売り方」として参戦
全力で売りました。
そして、1907年1月16日「あかぢ銀行」が持ち株を全文売り出したのをきっかけに大暴落が始まります。

栄之助は、相場で儲けたのはもちろん北浜の仲買人達の信望も得るのでした。

1909年(明治42年)に財界が結成した渡米実業団に加わり、アメリカ合衆国を視察、多くのお金持ちが多額の寄付をしていることを知って感銘を受ける。
1911年(明治44年)栄之助は、父親の供養も兼ねて金百万円(現在の50億円ほど)を寄付すると発表する。
この資金で建築されたのが大阪中央公会堂です。

そんな中、仲買人達が
又栄之助の義侠に頼らざるをえなくなる事態が起きます。

堂島米穀取引所が買い占め王「高倉藤平」の手に落ちそうになったのです。
栄之助は今回も、百万円の定期預金証明書をわしづかみにして市場に駆け込み、売って売って売り抜きました。
しかし、この時は戦いに敗れ栄之助も大損します。
ただ、それゆえに栄之助の人気は益々上がりました。

第一次世界大戦末期の1916年(大正5年)株式市場は暴騰を続けていました。
「遠方の戦争は買い」の格言通り
栄之助は買いで参戦します。
終戦が近いとの予測が出始めるころ、日露戦争後のバブル崩壊が栄之助の頭をよぎります。

「こんな相場が続くはずがない、やがて講和が結ばれ株価は必ず暴落する。」と
売りに転じます。
しかし、相場は崩れそうで崩れず
栄之助は立ち直れないくらいの大損を出してしまいます。

これまで栄之助に世話になった仲買人達は、「この名物男を殺したら北浜の恥になる」と救済に乗り出す。
しかし、栄之助は覚悟を決めます。
1916年(大正5年)10月22日
岩本商店の全ての使用人と家族を京都の宇治へ松茸狩りに出した後
自宅の離れ屋敷に入り、
ピストル自殺を図ります。
そして、27日に死亡します。

1918年(大正7年)に第一次大戦が終わり、その後景気は後退し2年後の
1920年(大正9年)には
戦後恐慌が起こり株は大暴落。

栄之助の売り出しは少し早かったのです。
1918年(大正7年)10月末に
中央公会堂完成。

岩本栄之助辞世の句
【その秋をまたで散りゆく紅葉かな】

☆岩本栄之助が百万円を寄付した趣意書の抜粋

子孫が無意味に貯め込み、あるいは無駄に散逸させるようなことがあるならば、我ら兄弟にとって父母に対する道理にしたがった道ではないと信じ、ここに社会公共のため、有益の資に使おうと望んだ外になりません。