ジュリーに不遇時代があるとすればCO-CóLO、当時のセットリストを発見! | あの頃のショーケンになりたかった! エコケーンの日記

あの頃のショーケンになりたかった! エコケーンの日記

グループ・サウンズやローリング・ストーンズなどのロック、モーニング娘。などのアイドルに昭和プロレス、映画に落語に食べ物や大阪に関することやそのうえお城も好きで、見たり聴いたり、その時に感じたことを書きたい備忘録日記、、、、

 「レコード・コレクターズ」の2022年3月号特集「究極のギター・ソロ〜日本のロック編」に触発されて書いたのが「ロックギタリスト名演101選、GSや昭和歌謡もロックだった!」

 GSのアウト・キャストからアダムス、さらにはGS&POPS誌をひっぱりだしてきて、ザ・タイガースのトッポの不遇時代へと続きましたが、、、、

 

 ちょうどアウトキャストの裏側頁に登場したのがギタリスト石間秀樹!

 

石間秀樹経歴をウィキれば、、、

 高校卒業後に本格的にギターを始め、1966年にGSグループ「ジ・アウトロウズ」(ザ・ビーバーズ)を結成。1967年シングル「初恋の丘」でデビューしたが、1969年解散。

 同年内田裕也に誘われ、ロックバンド「フラワーズ」に参加。

 その後「フラワー・トラベリン・バンド」(FTB)

 1974年にチト河内・篠原信彦・後藤次利らとともにトランザムを結成。

 1980年、萩原健一と「ドンジュアンR&Rバンド」 を結成。

 1985年には、沢田研二とバンド「CO-CóLO」を結成。88年までにアルバムを3枚製作し、ツアーも積極的に行った。

 

 沢田研二さんに不遇時代があるとすれば、CO-CóLOではないだろうか、、、

 

「沢田研二大研究」の1986年12月頃の石間秀樹コメント

 はっきり言って、ファンは沢田をもっと自由にしてやんなきゃかわいそうだよ。沢田が変わらないでほしいっていう人と、変わりながらも、それに付いてきてくれる人と、大きく分けたら二つあると思うけど、私生活から仕事から、パーソナリティのことまで全部自分たちのものにしようとしてるじゃない。勘違いしてさ。俺たちと沢田は音楽やっているわけだから、そこをちゃんと聴いてほしいと思うわけ、トータルに

 

 おっ、なかなかいいコメントではないか!

 

CO-CóLOをウィキれば、、、

 沢田研二のバックバンドとしてエキゾティクス(EXOTICS)解散後の1985年に結成。

 リーダー兼バンドマスターはハプニングス・フォーのクニ河内の実弟、チト河内。沢田研二と活動を共にした後、1988年に解散した。

 同バンド結成の1985年、渡辺プロダクションを独立し、株式会社ココロを設立した。レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍。

 この背景には他者のプロデュースを退け、沢田自身のよりアーティスティックな表現を自身の意志で制作するための環境作りがあった。

 そしてその意志を音楽面で確立するために結成されたのがこのCO-CóLOである。

 チト河内を中心にツインドラムという従来にないスタイルで、ベテランを中心にした技巧派揃いの編成となったこのバンドには自身の事務所と同じ名を冠し、沢田本人はCO-CóLOを単なる「バックバンド」ではなく、「沢田をボーカリストとするバンド」と位置付け、音源制作とライブ活動の全てを共にする密接な関係を築いた。

 しかしその音楽性は受け入れられたとは言い難く、レコードのセールスも減少してしまった。

 1988年の解散後、沢田はエキゾティクス時代以来となる吉田建との共演により、再び煌びやかなロックサウンドに回帰することとなる。

 

当時のセットリスト、GS&POPS誌に残っていましたね!

 

架空のオペラ 1985(昭和60)年7月

 

正月歌劇 1986(昭和61)年1月

 

架空のオペラPart2 1986年7月

 

KEEP ON RUNNING 1987年(昭和62年)7月

 

 ラストが♪護り給え、正月のオープニング曲ではないか、、、

 

いやぁ、まいったなぁ