公式HPの「これまでの少女映画では描かれなかった、“死の向こう側”へとそっと踏み込んでいく」という言葉の意味をくみ取りたくなり鑑賞。

 周囲に馴染めない杏菜が、新たな教会系の寄宿学校で出会ったのは、美しい少女・莉花。彼女は杏菜にも親切で、他の生徒からも信頼されていた。しかし、莉花は屋上から飛び降りて命を絶ってしまう。まるで自分へのメッセージのように残された一冊の日記。その日記から、莉花の親友でもあった栞も交え、不在の莉花を含めた3人の関係は深まっていくというもの。しかも、杏菜はある種の感覚が鋭く、彼女には魂の存在が見えてしまう。

 そういった、大人になると忘れてしまうような、不思議な時間を切り取った映画だと言える。

 脚本・監督は本作が長編映画デビュー作となる坂本悠花里。1990年生まれの彼女は上智大学で哲学を専攻後、東京藝術大学大学院映画専攻にて編集を学んだという。だから作品は、「万人に分れば良い」ではなく、観客それぞれが、「自分なりに解釈すれば良い」というアート志向になる。

 最初に書いた「死の向こう側へ踏み込む」感覚はいささかありきたりだと失礼ながら感じてしまった。ある時期の少女が感じる価値観などに新鮮な感覚を求めたかったのだが、「大人は判ってくれない」感じだけでは1960年代の若者と変わらない。もっと新しいものと出会いたかった・・・などと書くのは、無いものねだりだろうか。

 ただ劇中のセリフにもある「私が感じている莉花は、私だけの感覚かも知れない」というようなことは、現代の映画に最も必要な要素だ(観客が意識することも含めて)。

 もちろん、不思議少女、杏菜の母親が、私にもそんな感じがあった。と言うのは、私にもあったし、妙に実感出来てしまったのも事実。こんな映画がもっと生まれれば、日本映画の将来に期待が持てそうだ。

 莉花役に蒼戸虹子、杏菜に美絽、栞に池端杏慈。周囲の大人たちに門脇麦、河井青葉、岩瀬亮、伊藤歩らが出演している。

 2025年12月公開。

 吉行淳之介による同名小説を映画化。脚本・監督に荒井晴彦。荒井晴彦というと「火口のふたり」などの監督作で知られるけれど、その昔はいわゆるピンク映画の脚本家で名高い。しかも、ピンクの中に時代性や革命を持ち込む感覚がある映画作家だ。

 吉行淳之介というと三島由紀夫と同世代の作家で、三島がその精神を研ぎ澄ませていったのと逆に、私小説のなかに俗なものの面白さを描く作家という側面があり、人間の姿を描くのが映画だとすると、断然、吉行小説が映画の原作には向いているのだろう。

 そんな吉行の原作を得て荒井晴彦が取り組んだのは、私小説作家の飢えた愛が反映した、猥雑でそのくせ純文学的な言葉の世界。

 妻に逃げられて独⾝のまま 40 代を迎えていた作家の矢添。彼は自らの衰えを実感しながら、娼婦・千枝⼦(⽥中麗奈)の元に通っている。彼には、あるコンプレックスがあり、恋愛というものに向かう勇気がない。私生活では、偶然知り合った⼤学⽣の瀬川紀⼦と肉体だけの関係を続けながら、⾃⾝が「自分にとっての精神的な愛の可能性を探究する」小説を執筆していたというもの

 本作では、作家矢添を演じる綾野剛がコンプレックスに苛まれながら、肉欲を追求する自分自身と、作品として書かれていく主人公Aとの二役を演じていく、いわば入れ子の構造。だから原作から考えると、吉行淳之介から考えると二重の入れ子構造だ。

 しかし、人間の業のようなものから考えると、すべて同じ一人の人物に帰結する。このあたりが吉行文学原作の面白さ。

 で、映画の時代は1969年。その時代の小説の中に出てくるような会話が面白く、懐かしい。1969年は「アポロ11号」が人類初の月面着陸に成功した年。「星や月は天の穴だよ」に人類は大きな一歩を示し、時代の価値観が変わる予感があった時代。安保闘争が最終局面を迎え、理想に燃えた学生たちは挫折していく。そんな時代を追憶しながら、荒井晴彦は何を思うのだろう。

 本作の主人公、作家の矢添の日々を、自堕落で刹那的と、「こんなことは理解できない」という観客も多いだろう。それを書きながら、三島由紀夫の「春の雪」の映画化で「主人公、清顕の行為は身勝手で許せない」と書いていた人もいたことを思いだした。

 作家の世界って、だから面白いのだと今さらながら感じるのは私だけか?ちょっとした不倫で仕事を失う芸能人の世界は正常なの?誰が誰に罰を与えているの?と時代をいぶかしく感じる昨今だが、大学生瀬川紀子を演じた咲耶(さくや)は、綾野剛相手に5回以上の激しい欲情を演じる。

 素敵なモノクロ映像と懐かしい言葉遣い、何よりも18禁の濡れ場満載の映画を大人の観客は楽しまなくちゃ!

 2025年12月公開。

 「湯を沸かすほどの熱い愛」「浅田家!」の中野量太監督作品。原作は作家・村井理子が自身の体験をつづったエッセイ「兄の終い」。

 突然舞い込んだ実の兄の訃報。自分勝手な兄に、幼いころから振り回されてきた主人公・理子の兄に対する思いや、実際の後始末、つまり遺体の火葬、住まいの撤去、役所などの手続き、さらには兄の息子の問題。そんな人間味あふれる4日間が描かれる。

 理子を演じるのは柴咲コウ。死んだ兄をオダギリジョー。兄と離婚した元妻に、満島ひかり。その娘に青山姫乃。母親と離れ兄と暮らしていた息子に味元耀大らが出演。

 まず印象だが、軽いタッチながら「うかつに」感動させられる要素が多い、良質のエンターテインメントだ。

 それにしても、シングルマザーを演じれば右に出る者がいない満島ひかりの芝居にはやられっぱなしだ。彼女が向き合えば、2012生まれの味元耀大のリアクションが輝きだす。そんな瞬間も本作の魅力だ。

 兄の後始末をしながらも、過去の嘘をつかれた思い出や、兄のいい加減な部分を許せず、悪口を言いつづける理子に、離婚し、憎んでいるかも知れない元妻の加奈子は言う。「もしかしたら、理子ちゃんには、あの人の知らないところがあるのかな」。人にはそれぞれの印象だけではなく、過ごしてきた経験による人物像がある。色んな面を演じるオダギリジョーは、楽しかっただろうなと想像してしまう。

 人を葬るというのは大変だ。私にも、夫に先立たれ、子どももなく、亡くなった叔母がいる。彼女の家をどうするか?という言うより、親族の私がいなければ火葬が出来ない。年金のことや多くの手続きなどもあり、大変な思いをした。本作同様に新幹線で遺骨を持ち帰った。しかし、遺品や写真で故人を知る事も多かった。不謹慎だが、だから映画として成立しやすいのかも知れない。それだけにこの後書くことになる過去回想どうなのか?

 良質のエンターテインメントと書いたけれど、安易に少女時代を回想し、兄を擁護するような表現や、主人公が作家だから文字が出るのは良いのだけれど、あくまでも設定の説明の範囲を守るべきだ。気持ちまで説明するのはどうなのだろう。(大量のゴミを焼却場に捨てるシーン)

 面白い映画だった。涙が出た。感動した!と言われたい監督の気持ちはよくわかるが、新しい切り口の映画もみたいものだ。

 2025年12月公開。

 まず「アクト・オブ・キリング」という映画から。1960年代インドネシアで行われた大量虐殺を加害者側の視点から描いたドキュメンタリーで、映像作家ジョシュア・オッペンハイマー監督は、加害者側の映画製作を行った。意気揚々と過去の殺人行為を、喜びを持って演じながら再現していく虐殺者たちの姿におぞましいものを感じざるを得なかった。

 本作は、そんな監督のフィクション作品である。しかもミュージカル映画。

 環境破壊によって地上に人が住めなくなった世界。母、父、息子の3人は、母の親友と医者、執事とともに地下シェルターで暮らしている。彼らは資産家だったらしく、暮らしは豪華だし、日々儀式的なルーティーンを過ごし、“希望”と“日常らしさ”を必死に保とうとする。そこに、若い女性が突然現れ、彼らに助けられるが、彼らの日常は一変するというもの。

 地下に住む彼らは、外部から来る人間を寄せ付けてこなかったが、この地で生まれ、知識以外に地上を知らない息子は、外部からの女性を愛し始める。

 母親にベネチア国際映画祭の女優賞を受賞しているティルダ・スウィントン。息子に「1917 命をかけた伝令」のジョージ・マッケイ。

 極めて皮肉な映画だ。助けられた女は、自分が見捨てた家族の事で苦しみ、そんな感情がここに住む人間に伝播していき、彼らの希望は、生きられたことのユートピアからデストピアに変化していく。

 そして最後には、ある事が起こり、家族の絆は深まり、新しい希望が始まるのだが、もはや今後誰とも出会えない「最後の家族」なのだという設定は超えることができない。

 やや人の悪そうな(単に印象、お許しを)監督曰く、「『THE END(ジ・エンド)』は激しく心を打つ叙事詩であり、愛と家族と終焉についての物語です」とのこと。

 撮影現場の美しさは目を見張る。裏はとれてないが、たぶんイタリアのシチリアにある有名な岩塩採掘場。他の鉱山より圧倒的に白い。これを見るだけでもうれしくなる。

 ミュージカルというと、表面的な希望に満ちたパッピーエンドが多いが、この監督、そんなに観客を幸せにしてはくれない。でも、映画の皮肉を楽しみたい方にはお薦め。

 2025年12月公開。

 「今こそこの戦争を撮って 世界に見てもらう必要がある。苦しみを全て記録するの。他に誰がやる?」と話すパレスチナ人のフォトジャーナリストのファトマ・ハッスーナとイランからフランスに亡命した監督のセピデ・ファルシ。故郷に帰れないし、ガザに入れない監督と、ガザから出られない若い写真家とのビデオ通話による記録だ。

 監督のセピデはファトマと世界を繋ぐ窓となり、ファトマは空爆や飢餓にさらされるガザ市民の姿を伝えていく。

 ガザ・イスラム大学の教授で詩人の故リフアト・アライールの「もし、私が死ななければならないなら あなたはどうしても生きなければならない」で始まる詩と死を彷彿しながら、この小さな、そして通信の不安定な画面の中の世界を、観客は見続けるしかないのだ。

 会話は安否確認から始まり、戦況を伝えるしかなく、何か平和のメッセージを伝えるのでもない。それだけに、薄っぺらな他人ごとにならないリアルな感覚をつきつけられる。

 爆撃で叔母さんが吹っ飛び頭だけが見つかったという話や、親友の死に関する報告などがファトマの恐ろしい日々の不安を感じさせるが、彼女は終始笑顔である。

 そして、映画の終盤、本作のカンヌ映画祭へ出品を歓ぶファトマに悲しい結末が訪れる。

 彼女が書いたとされる「もし死ぬのなら、響き渡る死を望む」になってしまった訳だ。まだ25歳。ウーマンズ・アフェアーズ・センター・ガザ(WAC)で写真家として活動したことのある彼女が、世界を移動するセピデ・ファルシ監督を羨やむのは自然な事。しかし、自分はガザに居続けると言ったファトマの言葉が切ない。

 「これはファトマの死に関する映画ではなく、笑顔で生き、活動した記録なのだ」などと綺麗ごとを書くのは虚しい。

 監督はインタビューで「パレスチナで起きていることは、西洋の植民地主義的な態度の集大成なのです。だからこそわれわれは『同意しない』と声をあげなくてはなりません。それが彼らに寄り添うことにつながるはずです」と述べている。

 ラスト近くの破壊された街の移動撮影は、脳裏に焼きついている。その瓦礫の中から見える人の手にも。自分の無力さを、言葉に書くしかできないのは無念だ。

 2025年12月公開。