長編デビュー作「Playground 校庭」で世界から注目を集めたベルギーのローラ・ワンデル監督の新作は小児病棟の看護師から見た、4歳児とその母親の関係を描いた作品だ。プロデュースはあのダルデンヌ兄弟。4歳児の名前は「アダム」。だからと言って子どもの原罪という意味ではない。

 公式HPで、ローラ自身が、作品について「For Adam’s sake・・・人間であるがゆえに。(中略)アダムとは特定の人間ではなく、私たちすべてを指しています」と述べているが、この幼いアダムの周囲に、人々の愚かしさが露呈していく。

 母親は一人でアダムを育てていて、どんな情報に影響を受けたのか、アダムに「母親が提供するもの以外を食べてはいけない」と、まるで宗教二世のように洗脳し、栄養不良から虐待として、子どもとの生活を禁止されている。不思議な話ではない、SNSの情報などで、体に悪い食品などを知って、偏食をしてしまっている人も多い。本作のアダムは栄養不良から骨折していて、ようやく鼻注(鼻から栄養をとる処方)から一般食に戻す場面から始まる。

 で、そんな母子を何とかしたいと思う看護師も、シングルマザーなのか、娘を育て上げていることが誇りだ。

 そういえばローラが映画の魅力を知った「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」もシングルマザーと息子だったのではないか?ただし、「ジャンヌ・・・」では固定カメラが活用されているが、本作はあわただしく移動する看護師にカメラは張り付き、移動しながら、観客に自身の眼で見ていることを体験させていく。

 このタッチは、最近上映されたばかりの「ナースコール」にも近いのだが、「ナースコール」が一般病棟での物語だから、大人同士の会話もあり、なごむ場面もあるのだが、本作では一瞬たりとも気が抜けない。何しろ子どもの栄養状態は悪く、病院の管理された食事を食べてくれないし、母親は何やら怪しげな液体を飲ませようとする。母親を隔離すれば良いのだが、看護師のルシーはそれに反対するのだ。そのあたりの心理ははっきりとは描かれないが、観客の視点で考えても面白い。

 看護師・ルシーに「CLOSE クロース」「オークション」のレア・ドリュッケール。母親のレベッカに「あのこと」のアナマリア・バルトロメイ。

 本作の解釈は一筋縄ではいかない。ラストへ向かっていく場面では、看護師の行動も通常の判断からすると疑問符が付くし、ラストも大いなるオープンエンドだ。

 公式HPの「守るべきは社会のルールか それとも尊い命か?」と言うような対立的なテーマとは違う事だけは言える。2025年カンヌ映画祭批評家週間のオープニング作品である。

 2026年6月公開。

 2026年カンヌ映画祭コンペティション部門に選出された本作は、亡くした子どもそっくりのヒユーマノイドと夫婦を題材に、是枝裕和監督のオリジナル脚本によりものだ。

 ヒューマノイドを迎える夫婦に、建築家で妻の音々(おとね)に綾瀬はるか。夫で建築会社社長の健介に大悟。亡き息子カケルのヒューマノイドに桒木里夢。他に清野菜名、寛一郎、余貴美子らが出演している。

 さすがに是枝監督だから、亡き息子の「安っぽい」思い出などは出てこない。当たり前だ、観客にとっても亡き息子は、そっくりとされるヒューマノイドの行動や言葉から想像するしかない。だから、夫婦の彼に対する距離感の違いや、後々変化していく感情を推測することで、物語に深みを与えてくれる。(楽しませてくれる)

 ところで、この作品、意外と一元的に流れるドラマチックな構造だ。まあ、分かりやすく作られている。登場人物のちょっとしたセリフが心境の変化をけん引する。そのあたり、映画祭では不利となる。

 さて、タイトルの「箱の中の羊」は児童文学「星の王子さま」のエピソードから引用されている。パイロットが出会った王子は、羊の絵を描いて欲しいと言うが、どんな羊の絵にも納得しない。パイロットは箱の絵を描き、羊は箱の中にいると伝えるというものだ。

 このことは、映画本編でも出てくるが、ヒューマノイドには箱の絵としか理解できない。しかし、人間には「そこに描かれていないもの」を想像できるし、リアルに感じることも出来る。そのあたり、本作を観て「箱の中」は何なのか?を考えさせてくれる。子どもを亡くした両親にとっても、映画という経験から時間を共有している観客にとっても・・・。

 だからこそ、それが何だったのかは、安易なセリフにはしてほしくなかったというのが感想だ。

 そういった点では、コゴナダ監督のアンドロイドの記憶の中がテーマとも思える「アフター・ヤン」などは、もっと観客をかく乱し、観客は自分が大切にする記憶の断片を思わざるを得ない作品になっていた。

 本作も、もう少しヒューマノイドの記憶が複雑であっても良かったのかもと思ってしまう。ただ、本作の場合は、ヒューマノイドの記憶は、元に読ませた記憶をAIが別の情報も参照して生み出すものだとすれば・・・。まあ、私が考えることではないが。

 ラストは結構、社会人としては無責任な放置に近い感じだけれど、ファンタジーなのだし、オープンエンドがふさわしい。

 ラストの森もそうなのだが、近藤龍人の撮影が素晴らしい。そのあたりも物語をSF的なご都合主義を感じさせない魔法だろう。

 AIと話しながら生活する人もいる時代、リアルな現実かも知れない。近い未来では。

 2026年5月公開。

 新疆ウイグル自治区出身のジン・イー監督の初長編作品。新疆ウイグル自治区の小さな村の夏の日々。植物を愛する少年・アルシンと漢族の少女・メイユーの日々が、ドラマというより、これは夢だ(誰の?私の?)というように詩的に連なっていく、いわば自分が、その地に居て目撃しているように事象が続いていく、斬新な作品だ。

 2025年ベルリン国際映画祭ジェネレーションKplus部門にて国際審査員グランプリを受賞している。何度も書くけれど、ジェネレーション部門は子ども映画ではない。むしろ表現的に先進的な作品が多い。

 本作の内容を言葉で説明するのは難しい。しかし、自分が夢を見ている感覚で理解していくと妙な体験感がある。(夢なのにね)

 カザフ族では長男は祖父祖母の養子となり、アルシンにとって兄は叔父と呼ばなければならないとか。実際の叔母には失踪した叔父が居て、彼女は寂しくて山に懐中電灯の光をあてるとか。好きなメイユーを待つときは、目を閉じて数秒数えれば良いとか。困った時は馬が何かを教えてくれるとか。我々の日常の価値観なんて消えてしまえと言いたくなる。

 ね!分からないでしょ。だからストーリーは書かない。

 ここでキャストの紹介なのだが、全く無名なのでそれも省略。監督のジン・イーは、自分の故郷の記憶と精神的風景をもとに制作したという。彼は、やはり北京電影学院出身である。たぶん学校で多くの映画と出会い詩的な映画原語を学んだのだろう。ビー・ガンとの出会いも大きいと思われる。

 彼は「『凱里ブルース』を初めて観たとき、映画の時間が物語の外側へ広がっていく感覚を受けました。夢と現実が分かれていないというより、時間が層になって存在しているように感じたんです。あの映画は、映画が持つ可能性の輪郭を大きく広げてくれました」公式HPで語っている。

 なるほどという感じだが、ビー・ガンとの違いは、登場人物の価値観が違う。ビー・ガン作品の人物は現在のやや底辺に居て、欲と色を隠し持っているが、本作の人物たちはそういった部分は淡白だし遥かに美しい。だって馬だって詩を読んでくれる。

 撮影監督リー・ヴァノンによるカメラワークも絶品だ。どうです?観たくなったでしょ。

 映画という夢を観ながら、観客自身が心の世界を創作できる映画かな?

 2026年5月公開。

 イランのジャファル・パナヒ監督が2025年カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した作品だ。本作はパナヒ監督作品のユーモラスな部分はやや抑えられていて(といっても笑うシーンもあるが)、やや重苦しいサスペンスでもある。

 自分を投獄して人生のすべてを奪った男と偶然出会ったワヒド。ワヒドは相手の声と義足の感じから、復讐の相手だと思い、荒野に埋めようとするのだが、相手は人違いだというし、ワヒド自身、投獄中は目隠しされていたので確信がない。

 彼はひとまず復讐を中断し、同時期に投獄されていた反体制派の人物を訪ねていくことになる。最終的にワゴンに乗り込むのは、復讐すべき男以外に5名となる。その5名は確信が持てないまま、1日中車でさ迷うことになる。

 本作はきわめてストーリーテラーな部分があるので、これ以上は書けないが、面白いシーンがある。それは、時間がなかなか過ぎない荒野のような場所で、「昔見た芝居を思い出したという」それは「ゴドーを待ちながら」だ。この話は、タイトルだけで終わるのだが、「ゴドー」から考えることもある。ベケットの劇作は、木が一本生えた荒野で、男たちは、意味のない話をしながら、ゴドーを待ち続ける話だ。

 まさに本作も、誰が誰に復讐しても憎しみの連鎖となり意味はない。が、それを待ち続けるのも人間かも知れない。それぞれが心の中に隠し持つ秘密や語れない何かを持ちながらさ迷う1日はスリルに満ちている。そして、それほど悪人も出てこない。ワヒドに至っては偶然のように「善行」まで。

 反体制的な活動を理由にイラン政府から映画制作を禁じられながらも活動を続け、2度にわたって投獄された経験をもつジャファル・パナヒ監督。本作は彼自身の思いと同じ境遇の人々の言葉から発想した作品だという。

 監督は「チャドルと生きる」、「熊は、いない」でベネチア国際映画祭金獅子賞、「人生タクシー」でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。本作でカンヌ映画祭のパルムドールを受賞したことで、3大映画祭すべてで最高賞を受賞する快挙を達成したのだが、それ以上に何か重い想いを感じざるを得ない。

 ワヒドにワヒド・モバシェリ、女性カメラマン・シヴァにマルヤム・アフシャリ他が出演している。

 ラストシーンの不気味な描写の意味は誰かと話し合って欲しい。

 2026年5月公開。

 ろう者の妻、アンヘラと夫、エクトル。彼らは手話がコミュニケーションの中心。陶芸工房で働くアンヘラは、静かで平穏な日々を送っていたのだが、ある「幸せな出来事」がきっかけとなって、多くの悩みが・・・。公式HPにも「幸せな出来事」については記述がないので、ここでは書かないことにしよう。(そんなこと誰だって予想する事なのに・・)

 監督はエバ・リベルタ。彼女はマドリード・コンプルテンセ大学で社会学の学位も取得している劇作家である。

 監督メッセージで「主演のミリアム・ガルロは私の妹で、ろう者です。数年前、ミリアムは母親になろうと考え始めました。(略)ミリアムは『聴者による、聴者のための世界』で母親になることへの不安や期待を打ち明けてくれました。(略)今回の長編作品は、ろう者の世界と健聴者の世界との複雑なつながり方をさらに深く探求したいという思いから生まれました」と述べている。(公式HPから)

 ろう者と聴者の関係を描く映画は多くあるが、本作では、良く尽くしてくれる夫との間にも次第に感じる違和感を、丹念に描いている。そしてやがては、互いが本音をぶつけてしまう諍いに。

 そしてラストの15分ほどは、アンヘラの聴覚世界に映画は突入する。だから観客も、アンヘラの表情、周囲の人たちの仕草や手話をしっかりと見るしかない世界を体験する。そのあたり、「映画をセリフでしか捉えないで、見てよ。映画はイラスト・ラジオじゃないんだから」とでも言うように・・・。もちろん名セリフを否定するわけではないが、私にとって興味深い体験だった。

 この表現は、コーダを扱った映画でいくつか見られるが、本作が最長時間かも知れない。で、再び監督の言葉を引用。「私はアンヘラをろう者全体の代表として考えたこともありません。アンヘラは母親になる過程を歩んでいる女性であり、パートナーとの関係に問題を抱え、両親との関係も複雑で、娘に自分のことを知ってもらい、また愛してもらいたいと願う女性です」

 いわゆるスペインのアカデミー賞ともいえる第40回ゴヤ賞では、最優秀新人監督賞、最優秀新人女優賞、最優秀助演男優賞を受賞、またベルリン国際映画祭にて観客賞とアート・シネマ賞を受賞している。

 ろう者と聴者の間にある誤解や嫉妬、あるいは劣等感や敗北感のような感情。映画の最後に何かが収まるわけではないが、ただ少し微笑んで見ていたのは事実。本作の原題は「Sorda」英語題は「Deaf」である。

 2026年5月公開。