またまた医療ドラマか?と食傷気味の感はあるが、人手不足の病棟で、看護師に起こる激務と不測のトラブルなど、世界各地で見られる問題を扱った映画だ。

 主演の看護師フロリアに「ありふれた教室」で絶え間なく窮地に陥ってしまう教師を演じたレオニー・ベネシュ。今回も泣きたくなるほどの怒涛の勤務だ。監督はベルリンとニューヨークに拠点を置いて活動するペトラ・フォルペ。仕事熱心な看護師が勤務の終わりに見るものは?とややサスペンスぽく書いては見たが、観客は、その朝から一人の看護師が休んだことで、広い病棟を2人の看護師と研修中の看護師一人で、26人の入院患者を看なくてはならない現実を目の当たりにする。

 服を着替え、新しい上履きを履けばすぐに仕事となる。簡単な夜勤との引継ぎが終われば、何時、休めるのだろうと観客が不安となる勤務が始まる。そう、彼女を追いかけるカメラが観客を休ませてはくれない。さらに色々な患者の人生の断片も見え、しかも深刻な状態の患者もいて、何かミスでも起きないかとハラハラする。強い痛みの患者には毒物(劇薬)ロッカーのキーを開け、薬を用意しなければならない。

 病室で待つ患者には事情が分からないから、ひっきりなしにナースコールがかかり、患者の要望やクレーム、他の病棟から、かかってくる電話などにも対応しなければならない。医師の数も少なく、病状などは医師でないと話すことはできないが、その医師が手術などで、病棟には現れない。で、そんな時、投薬ミスが・・・。

 さらに病棟では亡くなる患者も出る。仕事に誇りがなければやめてしまいたくなるだろう。そんな朝から夜までを観客はただ体験するのだ。綺麗ごとはあまりない。

 公式HPに書かれた「ラストシーンの奇跡」について書くことは出来ないが、その奇跡のようなものは、「幻想」「一瞬の夢」?解釈は色々あるだろうが、自分が書いた主人公フロリアへの脚本・監督のペトラ・フォルベからの贈り物だろう。

 医療ドラマとは言いながら、レオニー・ベネシュの医療機器の扱いなど、徹底的に訓練したリアリズムがドキドキハラハラを高めていく。それもそのはず、レオニー・ベネシュは実際に州立病院でのインターンシップを修了してから撮影に臨んだという。

 ドイツ語の原題は「Heldin / 女性の英雄」とのことだが、「女性」はいらないと思いながらも、医療従事者の聖戦ともいえる勤務を擬似体験できることは素晴らしい。

 2026年3月公開。

 過去に歯磨き粉のCMで有名になったものの、最近は忘れ去られつつあるアメリカ人俳優フィリップは東京で暮らし、すっかり街になじんでいる。そこに、レンタル・ファミリー会社を経営する多田から仕事の依頼が。大切な「家族」を演じることで報酬を得る仕事らしい。最初のうちは、戸惑うフィリップだが、人々との交流を通して、いつしか彼自身の心に変化が起こりはじめるという物語だ。

 「他者とのかかわり」「戸惑い」「いつしか心の変化」。何だろう、いわゆる起承転結の見本のようなプロット。さて、どんな作品に仕上がっているのだろう。

 フィリップに「ザ・ホエール」でアカデミー主演男優賞を受賞したブレンダン・フレイザー。監督に「37セカンズ」の日本人監督・HIKARI。レンタル・ファミリー会社を営む多田に平岳大。その他に柄本明、森田望智、安藤玉恵らが出演している。このあたりの演技も見どころだ。

 配給がディズニーなので、ありきたりのエンターテインメントだったら嫌だなとの思いもあったが、良質な作品に仕上がっている。フィリップが係わる人たちや仕事は、最初は生前葬の弔問客、親から独立したい娘の外国人花婿。やがて次第にかかわりが複雑になって来る。白人と日本人とのミックスルーツの少女の外国人の父親。これなんぞは、子どもと打ち解ければ「じゃあね」と別れられない関係となる。また、老俳優を力づける偽の映画雑誌記者としてのインタビュー。これも俳優と深い関係となり、事件を引き起こすことになる。だから、退屈している暇はない。

 そして、外国人であるフィリップの小さな疑問なども、映画の中に宿題のようにちりばめられ、観客はそれを知る事で小さな歓びと出会うことが出来る。

 エンターテインメント映画の嫌な部分は、観客が向かい合う結論が、往々にして単一な解釈を持つものが多いが、本作ではそのあたりは弱められ、観客がそれぞれの立場で向き合えば良いように作られている。だから、何らかの意味や価値観のプロパガンダにはなっていない。

 私のような見方をする観客にも、それなりに安心して観られるのは、主人公フィリップが出来事と出会う、「映画の目」に徹して、フィリップ自身の事を述べないからだろう。それが良かったのかも。それを意識させるようにフィリップはマンションのベランダから、遠くに見える窓の中の人生を「見て」「想像」している場面も何度か出てくる。「考えなきゃ見られない映画は嫌い」という方にもお薦め。

 2026年2月末公開。

 スウェーデンのヨアキム・トリアー監督の2025年カンヌ映画祭でグランプリを受賞した本作は、映画館から出ても追憶し、今後数年間、思い出される映画である。

 家の物語として映画は始まるが、この家には老いた母親が一人いて、二人の娘、俳優をしているノーラと、家庭を選び夫や息子と暮らす妹アグネスは離れて住んでいる。そんな時母親は死に、その家庭での追悼会に、家族を捨てて出ていった父親のグスタヴが姿を現わすというもの。

 「なんだそんなの通俗ドラマそのものだ」と思う人もいるかも知れないが、父親は映画監督で、この家を舞台に5年ぶりの新作となる自伝的映画を撮りたいという。そして主演をノーラに打診するが、彼女は脚本すら読まない。捨てていった父と娘という関係だけではなく、俳優と監督、さらには彼の過去の作品では、子役として妹のアグネスも出演している複雑な設定の中に垣間見る人間ドラマは、まさに圧巻という印象だ。

 前作「私は最悪。」で世界的評価を受けた監督と主演。舞台の前にプレッシャーで取り乱すノーラをレナーテ・レインスベ。妹のアグネスにインガ・イブスドッテル・リッレオース。父親のグスタヴにステラン・スカルスガルド。グスタヴ監督を尊敬し、主役に抜擢される女優レイチェルにエル・ファニング。心の奥底まで表現できる俳優たちの演技と、映画に望むグスダヴ監督の思いや、まるで無関係なようにも見えるノーラの舞台。あるいは父グスダヴの少年時代のショック。グスダヴの自殺した母親のナチスから拷問を受けた過去などが、映画全体を複雑にする。

 セリフの一つ一つまで聞き逃さないように見ると多くのイメージが観客に広がる。私にとって素晴らしい映画は、SNSのように同意見を拡散してくれるものではないし、人はこうあるべきだと説教されることでもない。一人の人間として、映画の中に表現されたドラマと対峙し、自らがイメージ豊かに映画の時間を生きた実感が持てることだ。

 多くの騙し絵的なコンテに翻弄されながらも、観客として自分を失わず対峙できることに喜びを感じる作品だ。

 センチメンタル・バリューとは経済的な価値評価ではなく人の感情の価値、つまり「愛着」という意味らしい。まさに私にとっても「センチメンタル・バリュー」をもつ作品となった。

 2026年2月公開。

 原題タイトルである「切っても切れない関係」の息子をめぐる物語だ。モナはシングルマザーで若くして授かった発達に遅れのある息子ジョエルを育てている。ジョエルは、障がい者のための職業作業所で働いているのだが、そこで働いている、障がいのある女性オセアンを妊娠させてしまう。

 目を離せない息子を心配するだけで、心の中はいっぱいなのに、ジョエルもオセアンも、子どもを持つことを希望している。「堕して」くれないのだ。子どもが生まれても、育てられるのか?不安で心は押しつぶされそうになる。そんな日々と、そこで起こる、モナの浅はかな行動が本作の内容となる。

 「浅はかな行動」と書いたけれど、他人から見ると「思慮が足らない」という事なのだが、押しつぶされそうな自己を救う行動ともとれる。

 そのあたり、観た人が考えれば良いことだ。本作はアンヌ=ソフィー・バイイの長編監督デビュー作。医療従事者の家庭で育ち、ケアを間近で見つめてきたバイイが、自ら綿密な取材を重ねオリジナル脚本に仕上げたという。だから、障がいを持つ娘の母親のセリフなど、実感がこもっている。ヴェネチア国際映画祭では40歳未満の新しい感性を持った若手監督・脚本家などに贈られるオーサーズ・アンダー40賞最優秀監督賞含む3冠を受賞しているから評価は高い。

 奮闘と混乱のなかにあるモナに、ロール・カラミー。息子ジョエルに自らも障がいを持つ俳優、シャルル・ペッシア・ガレット。オセアンに、障がいがありフランスの職業作業所で働いている、ジュリー・フロジェが抜擢されている。

 「人生を息子に捧げてきた女性の心と体の解放」などと公式HPには書いてあるが、そんな甘いものじゃないだろう。「案ずるよりは・・・」などの言葉も虚しいのだが、「特別な子」が親になるシーンに感動するのは確かだ。モナが耐えられなくなり、息子を置き去りにして、セックスを楽しむなどのシーン、「モナとしてどうなの?」とも思うが、そんなことぐらい「認めてあげてよ」というのも理解できる。

 2026年2月公開。

 「たしかにあった」と「幻」という反語をタイトルにした本作は、「失うこと」と「それは在る」と確信する、心の反復のような作品だ。

 物語を簡単に書くと、フランスから来たコリーは、日本における臓器移植への理解と移植手術の普及に尽力しているが、日本的死生観や倫理観の壁の前で、移植できる臓器提供が難しい現実の前で、無力感を感じている。そんな彼女は、3年前、プライベートにおいて屋久島で知り合った迅という男性と同棲を始めるが七夕の日に、彼はいなくなる。

 本作は、小児科での臓器移植にかかわる出来事と、プライベートで消えてしまった彼を探す2つの軸から物語は構成されていく。

 脚本と監督は河瀨直美。主演のコリーを演じるのはヴィッキー・クリープス。「ベルイマン島にて」「彼女がいない部屋」などで注目の(私自身好きな)俳優だ。河瀨作品常連の尾野真千子や永瀬正敏以外にも寛一郎や岡本玲らが出演し、渾身の演技を堪能させてくれる。特に子役として登場する中野翠咲、中村旺士郎の演技にも注目だ。撮影もドキュメンタリー的だし、実際の医療関係者なども出演している感じが、信用できる空気感を出している。

 「失敗しない医者」などが出ないリアルな医療現場には、気休めがない現実問題が展開され、観客にある種の「辛さ」も提供される。観客は自分事として、移植医療に向き合うこととなる。(子どものセリフの中にテーマに繋がる言葉を詰めるのには疑問はあるが)

 純度の高い本作、これは喪失の映画だ。しかし、喪失の中に「居た事」「在った事」は存在する。そんな、相反する「生きている」「死んでいる」の二極化ではない、ある種の曖昧さに、本作は答えを保留し、観客に任せていく。だから、屋久島で出会った愛に関しても、コリーと迅という男の、共通の偶然のような、生まれた時からの喪失にも説明を控える。そこから考えたい観客は自分の物語をはじめれば良い。

 河瀨作品というと、「Vision(2018年)」「東京2020オリンピック(2022年)」あたりは、「?」を3つくらい感じていたが、本作は彼女の「萌の朱雀(1997年)」「殯の森(2007年)」と連なったマスターピースとなっている。

 河瀨映画の持つ、妙な決めつけや、思い込み、楽観的な自然崇拝。そんなものが嫌いだという観客もいるかも知れないが、本作はそんな過去の幼稚さ?を払拭する快作だ。是非。