「いいね! を押すことが礼儀なのか」

少し前に「KY」という言葉が流行したように、
空気を読むということが日本ではかなり重要視されているのかな。

職場や学校はもちろん、友達関係や親子関係などなど
すべての関係性において、「空気を読む」ことが重要で、
「KY」になれば、上司や先輩、友達、親さえもに、にらまれ、
嫌われ者にさえなりかねない。

日本は島国根性と言われるように、自分たちの社会
ルールを守ることで、秩序を保ち、互いを支えているところがある。
村八分という言葉がその象徴のように思う。

みなと協力して生きることが条件で、意見を言うと
まるで、反発とみなされ、たちまち社会で異端児となる。

「あいつは変わり者」というレッテルをはられると
「組織・社会」では生きていけなくなる。
それほど自分の意見を話すことが
難しいのである。

職場や学校では社長、校長先生をはじめとする上司や
先輩のようなひとに、「物申す」なんてことは
実際にはできないような空気がそこにある。

もちろん、これはすべて悪いことではない。
責任感のある代表者が存在しておれば、
スムーズに物事は進み、そしてみんなが
それなりに生活できる。
つまり、仲良くなんとなくまとまることができるのである。

そして、地域社会、町内会と言われるような
コミュニティは、実にあたたかみのある
小さな社会であったと思う。
他人のこどもであっても、悪いことには注意ししつけするし、
互いにそのコミュニティを守るために
協力のもとで生きていたと思う。

しかしながら、近年はそのコミュニティというものが
破壊状態になり、
空気を読んでも、自分の生活の保障がなくなったのではないか?
だからちょうど僕の世代から「新人類」という
言葉のとおり、「空気を読まずに自分の主義主張」を
話すひとが、社会に多く放たれた。

そしてその結果、会社の終身雇用制は崩れ、
権力者側からすれば扱いにくい状態になった。
そしてそれを是正するために、ゆとり、ゆらぎ、あいまい
といったものが生まれ、空気はあまり読めないが、
自己主張もあまりしない世代が誕生した。

そして、本来顔が見えないからこそ
遠慮なく本音をぶつけ、真摯に意見を交わし
議論できるネットが、
「顔がみえないこそ、空気を読みなさい」という
ものにどんどん変化しているのではないだろうか?

いいね!と互いに押し合うことで、満足と配慮を
楽しんでいる若い年代が多いのは
やはり島国日本なんだなと思ってしまう。