福島原発爆発直後の決死の避難、PSA453超高リスク前立腺がんと失明危機の脳腫瘍手術、三人の名医との出逢い〜


第1章:福島原発爆発直後の決死の避難〜運命の15時28分、生死を分けた「10分」の境界線〜大地震の勃発と自宅の惨状2011年3月11日14時46分。日本中を揺るがした未曾有の大地震が襲ったその瞬間、私の日常は一瞬にして崩れ去りました。海辺から約7キロ離れた場所にある私の自宅は、激しい揺れによって屋根瓦が崩れ落ち落下、部屋の家具やテレビが倒れるほどの惨状でしたが、何故か神棚にだけは影響がない状態でした。私は所用のため、自宅よりもさらに海に近い場所にいました。大地の咆哮のような激しい揺れがようやく収まった後、私はただ事ではない気配を感じ、用事を急いで切り上げました。15時28分に自動車に乗り込み、エンジンをかけてその海辺の街を後にしたのです。のちに公式の記録を知って、私は全身の血の気が引くほどの衝撃を受けました。福島第一原発の敷地に津波の第一波が到達し、本格的に遡上し始めたのが、15時30分頃高さ約14メートルの巨大大津波がその海辺を容赦なくすべて吞み込んでいきました。もし、車を出すのがあと数分遅れていたら、私は間違いなく大津波に直撃されていたでしょう。まさに「危機一髪」の寸前、私は奇跡的に津波の手から逃れたのです。駅前のパニックと余震決死の思いで車を走らせ、私は近くの主要駅前へと向かいました。そこで目にしたのは、この世のものとは思えない光景でした。激しい揺れによって電車の車両が脱線し、横転していたのです。そこから命からがら脱出してきたと思われる乗客の群れが、駅構内や周辺の道路に溢れ返り、不安な状態でごった返していました。街全体を包み込む、言葉にできない緊張と不安。さらに、地鳴りを伴う強い余震が何度も、何度も執拗に足元を突き上げてきます。私はハンドルを握り締め、混乱する人波をすり抜けながら、必死に車を走らせ続けました。この生死の境界線において、私のすぐ近くでは言葉を失うほど切ない出来事、そして懸命な救出劇が起きていました。私の知人は、地震のあと、急いで外出中のお孫さんを迎えに行きました。無事にお孫さんたちを車に乗せ、避難しようとしたその時、お孫さんから「お家に残してきたペットが可哀想だから、迎えに行ってあげよう」という言葉がありました。その優しい願いを叶えてあげようと一度自宅へと向かったところ、無情にも押し寄せた巨大な津波に、知人とお孫さんが吞み込まれてしまいました。お孫さんを想う優しさ、ペットを想う優しさが、結果としてあまりにも悲しいお別れを招いてしまったのです。その一方で、必死に命を引っ張り上げた知人もいました。海辺の近くに住むその知人は、海から少し離れた職場で津波の情報を聞き、すぐに自宅近くへ車を走らせました。そこには、3月の春近し時期、畑の準備に追われていた自身のおばあちゃんがいました。「津波が来るから早く逃げよう!」そう叫ぶ知人に、おばあちゃんは「津波なんて来るわけがない」と頑なに拒み、いくら説得してもどうしても聞こうとしません。一刻を争う極限状態。知人はとっさに、おばあちゃんの身体を強く揺さぶり、半ば力づくで車に乗せてアクセルを踏み込んだのです。結果、その決死の行動が、おばあちゃんの命を救うことになりました。あと10分遅ければ危ういところだった私。孫の優しい一言のゆえにお別れすることになった知人。そして、強硬に連れ出してまで命を救い出した知人。人間の生死を分けたものの切なさに、私は胸が締め付けられる思いでした。翌日の光景:押し寄せた破壊の爪痕翌3月12日、私は周囲の様子を確かめるため、海辺の方へと向かいました。そこに広がっていたのは、言葉を失うほどの光景でした。電柱はなぎ倒され、立ち並んでいた家々は跡形もなく流され、残っているのはコンクリートの白い基礎(土台)だけ。先祖代々の墓石までもが無残に墓地から押し流されていました。ひび割れた地面には、引き波に取り残された魚たちが息絶えて転がっています。何より恐ろしかったのは、あの巨大で重いテトラポッドが、海辺から約2キロも離れた民家の庭先に数個も転がっていたことです。津波という水の塊が持つ、あまりにも狂暴な破壊力を思い知らされ、背筋が凍りつきました。運命の午後3時36分、さらなる絶望が打ち寄せます。福島原発1号機の建屋爆発です。水素爆発の知らせとともに事態は一変しました。目に見えない放射能の恐怖に追われるようにして、街のガソリンスタンド、スーパー、金融機関はすべて、またたく間にシャッターを下ろし、閉店してしまいました。夜を迎えると、電気も人の気配も完全に消え失せ、街は「静まり返った暗闇の街」へと姿を変えたのです。情報なき風下への避難と教訓避難する私たちを最も追い詰めたのは、圧倒的な情報不足でした。原発の状況や放射能の拡散ルートは一切届かず、私たちはただ「原発から遠くへ離れること」だけを信じて車を走らせました。しかし、これがのちに知った大きな教訓です。私たちが進んだ避難ルートは、皮肉にも、爆発した原発からの風が真っ直ぐに吹き付ける「風下」の方向でした。避難の途上、軒とい(雨樋)の出口あたりで手持ちの放射線測定器をかざすと、針が最高値を完全に振り切って測定不能になりました。そのすさまじい高線量を前に、言葉にできない恐ろしさが全身を駆け抜けました。確かな情報さえあれば、決して選ばなかった危険な道へ、私たちは自ら進んでしまっていたのです。原子力災害において必要なのは、ただの避難距離ではなく「風向きと拡散の正確な情報」です。情報が遮断された中での避難が、どれほどもどかしく、危険なものであるかを痛感しました。舞う雪と、終わりの見えない恐怖ようやく辿り着いたのは、ある学校の体育館でした。そこが最初の避難所となりました。季節は3月中旬。外は無情にも雪が舞い、底冷えする体育館の床からは、刺すような冷気が這い上がってきます。用意されたストーブは数えるほどしかありません。配られた敷布団と毛布に身をくるみ、寒さに震えながら夜を明かしました。暗い体育館には、不安に怯える小さな子供たちの泣き声が絶え間なく響き渡り、寄り添い合う家族連れの緊迫した空気が満ちていました。その様子に、胸が締め付けられるようでした。当時はすべての生活基盤を失い、これから先どう生きていけばいいのか、いつこの事態が落ち着くのかも全く分からない暗闇の中でした。目に見えない放射能への恐怖。あの時に味わった心と体の負担の凄まじさは、今振り返っても言葉になりません。東京への決断:冷徹な拒絶と温かい救いの手避難所での3日目の朝、外にはしんしんと粉雪が降っていました。「ここにじっとしていては、心が潰れてしまう」そう直感した私は、東京にある知人の家へ移動することを固く決意しました。しかし、頼みの綱であった愛車のガソリンも、ついに底を突きかけていました。もうこれ以上、車で走り続けることは不可能です。私はなんとか新幹線の停車駅前まで愛車を滑り込ませ、ここから新幹線に乗り換えて東京を目指そうと考えました。問題は、残していく愛車の置き場所でした。駅周辺にある回りの有料駐車場は全て満車の状態でした。「あそこなら安全に車を置かせてもらえるかもしれない」そう思い、私は駅の近くにあったある公的機関の窓口へと駆け込みました。事情を必死に説明し、新幹線で東京へ移動する間、一時的に駐車場を貸してほしいと願い出たのです。しかし、返ってきたのは非情な対応でした。極限の被災状況下であるにもかかわらず、その公的機関からは冷たく、簡単に断られてしまったのです。途方に暮れ、駅前で立ち尽くしていた私を救ってくれたのは、意外な出会いと民間の温かさでした。新幹線の停車駅前で、客待ちをしていたタクシーの運転手さんに思い切って事情を説明したところ、非常に親切に話を聞いてくださり、近くにある民間のスーパーを紹介してくれたのです。私はすぐにそのスーパーに飛び込み、同じように事情をお話ししました。すると、そこでは一転して「どうぞ、使ってください」と、快く駐車場を貸し出してくれたのです。人の温かさがどれほど身に染みたか分かりません。こうして愛車をスーパーに停めさせてもらった私は、ようやく新幹線へと乗り込むことができました。(なお、この時預かってもらった愛車は、後日、無事に取りに行くことができました。)新幹線の車内を見渡すと、私と同じように、着の身着のまま命からがら避難してきたと思われる乗客の姿が少なくありませんでした。皆、一様に言葉を失い、疲弊しきった表情で前を見つめていました東北新幹線が都心(終点)の駅のホームに停まった時、街はちょうど通勤・帰宅のラッシュ時間帯を迎えていました。駅のホームや通路は、普段通りの日常を送る人々で埋め尽くされています。その満員電車へと、私は身の回りの荷物を抱えて乗り込みました。震災発生から数日間、入浴や着替えすらも満足にままならず、ぎゅうぎゅう詰めの車内で、「自分の体臭が周囲に漂ってしまっているのではないか」「抱えた大きな荷物が邪魔になっているのではないか」と、たまらなく気になり、胸が締め付けられます。周囲から向けられる、どことなく冷ややかな視線と空気。自分たちが避難生活で経験してきた過酷さと、何事もない大都会の日常。そのあまりのギャップと冷徹な現実に、私は小さくなって身を縮めながら、ただ呆然と満員電車に揺られていました。その後、ようやく東京の知人宅へと到着することができました。温かく迎え入れてくれた知人の顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張が、ようやく少しだけ解けていくのを感じました。生かされた命の重み、人の世の冷たさと温かさ、そして被災の現実を深く胸に刻みながら、私の過酷な避難の旅は、ここでようやく一つの区切りを迎えたのです。