養源院の道向かいの三十三間堂の東大門
天台宗の寺で、永祚元年(989)右大臣藤原為光が、その夫人と娘・忯子(花山天皇女御)の菩提を弔うため建てた。
当時は、北は七条通、南は八条通、東は東山山麓、西は大和大路に及ぶ広大な地域を占めていた。しかし、のち火災にかかり荒廃した。
保元三年(1158)後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定められ、上皇となって住まわれた。その後、当寺の寺域内に、蓮華王院(三十三間堂)や長講堂を造営された。
明治維新後、後白河天皇陵が宮内庁所管となったので、御陵と寺城を別にして大興徳院と改め、渋谷より親鸞上人自作の阿弥陀如来像と自刻影像(そば喰い木像)を移したが昭和30年に法住寺の旧号に復した。
本尊の不動明王像(身代り不動尊像)は、方除の像として朝野の信仰を集めたが、後白河天皇は守護仏として崇められ、法住寺を復興されたのもこの像の霊験を体験されたからという。
赤穂浪士の大石良雄も義挙の成就を祈願しており、当寺四十七士木像を安置する。
庫裏
坂道を上がって行きます。
次回、総本山智積院です。