身代不動尊 法住寺 | imachanのお参り

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平成30年の初詣に藤森神社の御朱印を頂いてから御朱印収集にハマってます。お参りした神社仏閣と御朱印を紹介します。

養源院の道向かいの三十三間堂の東大門


法住寺の山門


天台宗の寺で、永祚元年(989)右大臣藤原為光が、その夫人と娘・忯子(花山天皇女御)の菩提を弔うため建てた。
当時は、北は七条通、南は八条通、東は東山山麓、西は大和大路に及ぶ広大な地域を占めていた。しかし、のち火災にかかり荒廃した。
保元三年(1158)後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定められ、上皇となって住まわれた。その後、当寺の寺域内に、蓮華王院(三十三間堂)や長講堂を造営された。
明治維新後、後白河天皇陵が宮内庁所管となったので、御陵と寺城を別にして大興徳院と改め、渋谷より親鸞上人自作の阿弥陀如来像と自刻影像(そば喰い木像)を移したが昭和30年に法住寺の旧号に復した。
本尊の不動明王像(身代り不動尊像)は、方除の像として朝野の信仰を集めたが、後白河天皇は守護仏として崇められ、法住寺を復興されたのもこの像の霊験を体験されたからという。
赤穂浪士の大石良雄も義挙の成就を祈願しており、当寺四十七士木像を安置する。


境内へお邪魔します。


庫裏


豊川枳尼真天・厳島弁財天





阿弥陀堂


六地蔵尊


御本堂


御本尊の不動明王は、寿永二年(1183年)11月木曽義仲が法住寺を襲ったとき、明雲大僧正が後白河法皇の身代わりになって敵の矢に倒れた。これはお不動様が明雲となって、身代わりになった、ということで、以来この不動明王は「身代わりさん」と呼ばれるようになったそうです。


この日は書き手の方が不在でしたので、書置きをいただきました。


こちらの御朱印は最後の一枚残っていた祇園祭の限定御朱印です。
壬寅年の私にピッタリの御朱印と思いいただきました。


本堂から見た境内




福壽観音


帰りはこちらの門から失礼します。


表から見た竜宮門


法住寺の次のお寺は三十三間堂の南大門を越えて


坂道を上がって行きます。


次回、総本山智積院です。