住之江区「加賀屋」の地名の由来 加賀屋新田会所・屋内の風景  | 大阪まち町スマホで見た四季の風景

大阪まち町スマホで見た四季の風景

長居公園・植物園・万代池。天王寺公園あたりを中心に大阪の四季の風景をGalaxy S21 Ultra 5Gで撮影、動画編集はVLLOしています。

【地名の由来となった加賀屋】加賀屋緑地パンフレットより

加賀屋甚兵衛は、延宝八年(1680)に現在の富田林市生まれました。淡路町(現中央区)の両替商加賀屋に奉公に出て35歳で独立開業。享保八年(1723)から新田開発に携わりますが、のちには本業の両替商をたたんで新田開発に打ち込むこととなります。こうして開いた新田が宝暦四年(1754)に代官の検地を受け『加賀屋新田』と名付けられ、ここから『加賀屋』と言う地名が生まれ現在に伝えられている。

茶室 鳳鳴亭(ほうめいてい)

渡り廊下

旧書院

下記は大阪市のホームページのコピペです

http://www.city.osaka.lg.jp/suminoe/page/0000348870.html

加賀屋新田を開発した加賀屋甚兵衛は大阪淡路町の両替商であり、享保13年(1728)よりこの地域一帯の新田開発をはじめた。延享2年(1745)から、加賀屋新田の開発に着手し、宝暦4年(1754)には加賀屋新田会所が完成し、ここに居を移した。翌年には開発事業も一段落し、代官より6町7反歩余の検地を受け、また「加賀屋新田」という村名を得た。その後も代々周辺地区の新田開発をすすめ、天保末年には105町3反歩余が開墾された。
 新田の経営、管理は開発主や開発主から任命された新田支配人が直接これにあたったが、新田会所はそのための中心的役割を担う施設であった。加賀屋新田会所は宝暦4年に完成したものであるが、当初の様子を示す史料は少ない。ただ文政10年(1827)の『家屋質入証文』により、この時期の会所の建築棟数や規模等を知ることができる。これによると、書院や鳳鳴亭を中心とした座敷部分は当時の姿をよく今に伝えることがわかる。両者を繋ぐ居宅部分も中心部は古い形態を残している。北側の土蔵は明治期に現在地に移築されたものと思われるが、全体として新田会所建物群の構成をよく伝えている。