世間の皆さんおはよーさん、、



暑い暑い!暑いの分かっとるから暑い言うな!暑いから仕方ない!ホンマ暑い、、汗もができるね、、『天花粉』でもつけたいですわ。(笑)今は天花粉言わんのかな?


昭和33年7月6日は大相撲が年6場所になり名古屋場所初めての初日を迎えた日ですわ。第一回目の幕内最高優勝は初代若乃花でした。



今年の名古屋場所の稽古の様子が片寄って流れてくるがあと一週間ちょいやね。杉山邦博さんの名古屋場所アーカイブでも紹介させていただいたが名古屋場所の相撲宿舎は神社仏閣が約半数を占めますわ。二所ノ関部屋がスポンサーの住宅展示場やったり、武隈部屋が温泉やったりもするが、大人数で使い勝手がエエのが寺社で土俵が併設されてたりするからね。


それでも最近は建物の老朽化で力士の重さで床が抜けたりして使えなくなってきたとこもあるそうや。愛知県体育館から一番遠いのが追手風の三重鈴鹿?木瀬の岐阜羽島かな?今は名古屋周辺も高速が整備されて便利になった。


ワシが名古屋に居たのが愛知万博の前、中部空港ができる前やから30年近く前や。名古屋は革新市政が長く続いたからインフラよりも教育文化が優先されて社会資本の整備が遅れていた。『大いなる田舎』言われてね、、TOYOTA自動車が活発になってきて愛知万博や中部空港、高層ビルができてきた。


そんな名古屋でなんとなく京都の庶民意識に似とる街での大相撲やが東海三県、中部地方は相撲人気が高いとこでもありますわ。


名古屋に『八事』って地域があるんやが天白区と昭和区に跨る地区、今は全国区になったが『コメダ珈琲』発祥の地に近い。TOYOTA創業家の別宅や名古屋場所共催する中日新聞のオーナー家の家や高級住宅別荘、名大に南山大学なんかの教育機関が点在するエエとこや。その丘陵地にあるのが『音聞山』、織田信長が今川義元を破った『桶狭間の戦い』の戦火の声が聞こえたことから『音聞山』とついたとか、、そこにあるのが曹洞宗寺院の『仏地院』ですわ。





仏地院

前身は明徳4年(1393)に開創された末寺十数ヶ寺をもつ真言宗の一 本山であった。数度の火災のため荒廃したが、寛永元年(1624)二世物道和尚が復興改宗され、陶金山佛地院と命名。十一世鶴峰和尚の代の大正7年現在地に移転し、音聞山佛地院と称するようになった。ご本尊は釈迦牟尼仏を祀っている。


先日ある文献を読んでいたらオモロイ一文を見つけた。


大正10年発刊の『東山名勝案内』に、


仏地院について、


『音聞山の西南麓にあり、三方に碧地を控え、最も景勝を占める』


百年前の文献に『景勝』?(笑)


碧地って『新緑、青や緑が美しい場所』って意味やね。そこに日頃の貴景勝アンテナがヒットしたんですわ。あれから百年以上が経った今、貴景勝が日々精進稽古に励んでいるんやね。



仏地院と相撲のかかわりは、1962年夏場所前に現役を引退した初代若乃花の二子山親方が定年までの30年間、その後は弟子の花籠親方(元関脇大寿山)が20年間、3年空けて元大関若島津の二所ノ関部屋が2021年まで宿舎を構えていた。旧二子山部屋ゆかりの地、去年から常盤山部屋が宿舎とした。二所ノ関一門連合稽古なんかもこの場所やったし。


横綱、大関、数々の力士の血と汗が染み込み、土俵の鬼(仏)が宿る地で、身体を鍛え心を養い精進して欲しいね、


昨晩そんなことをふと思い、ポチポチしました。




二年前の名古屋場所、『北の富士コラム』で御大がこんな筆を残している、、


 

 私は名古屋場所は今年で終わりの気持ちで来ていただけに、このような事態となって残念でたまりません。本日は昭和32年に初めて名古屋に来て、部屋の宿舎となった中区梅川町にある「長栄寺」を訪ねてみた。今は梅川町はなく探すのに苦労したが、調べてくれる人がいて見つけることができました。15歳から24歳で大関に昇進するまでお世話になったお寺は、思っていたより小さく感じました。周りの畑は住宅となり、使用していた銭湯もありませんでした。


 今だから言えますが、お湯を沸かすおじさんが一度だけ女湯ののぞき穴を見せてくれました。胸がドキドキしたのを覚えています。何もかも変わっていましたが、境内の何の木か分かりませんが木はまだありました。その木の下で大起関や羽島山関に稽古を付けてもらいました。今は駐車場になっています。それでも懐かしさでいっぱいです。涙が出そうでした。これで心残りはありません。


 15歳で初めて名古屋に来て65年、思えばその間、一度も休んでいません。それが自慢です。たくさんの人に助けていただきました。恋もしました。来年は名古屋場所を見に来るつもりです。では皆さん、さようなら。25日は東京へ帰ります。「白い街」名古屋。また会う日まで。なーんちゃって今の話は冗談冗談です。私はしぶといです。


四年前には名古屋場所に大関昇進を決めた場所をこんなふうにも振り返っている。

 

66(昭和41)年の名古屋場所で思いがけないことが起こりました。この場所は10勝5敗に終わりましたが、私としては2桁の星に満足して大酒を飲んで翌朝遅くまで前後不覚で寝ていました。床山の清さん(床清)に激しく起こされました。「北関、大関昇進です。もうすぐ使者が来ます」。まるでキツネにつままれたようです。


 現在は(三役)3場所で33勝が目安と言われていますが、私は28勝しかしていないので昇進するわけがないのです。したがって名古屋で勝っても昇進は無理と思い、紋付きの用意もしていなかったのです。さあ大変。佐田の山関に紋付きは貸していただいたので間に合いましたが、白足袋が合いません。私はバカの大足で佐田の山関のでは入りません。そうだ、近くに柏戸関の部屋がある。お願いすると快く貸してもらえました。


 大慌てで床清さんにまげを結ってもらい、ようやく伝達式を迎えることができました。本来は師匠とおかみさんが同席するのですが、佐田の山関に代役を務めていただきました。現役の横綱の立会人はおそらく初めてで、今後もないと思われます。


 まさか28勝で大関昇進とは、さすがに恥ずかしさはありました。いろいろと嫌なことも言われましたが、初代若乃花関も28勝で上がったと聞きホッとしたものです。将来性を買ったとも言われましたが、もしそうだとしたらありがたいことです。


 あの当時は玉の海、琴桜、清国、麒麟児、明武谷、開隆山、そして私が「七人の侍」と言われ大関先陣争いを展開していましたが、10勝を3場所続けるのは至難の業だったのです。考えてもみてください。上には大鵬、柏戸、栃ノ海、北葉山、豊山。佐田の山関は同部屋だから対戦はしなくて得をしたが、このそうそうたるメンバーを相手に勝ち越すだけでも大変なことでした。それに私自身が次男坊的なところがあり、さほど大関に上がりたいとも思っていなかったところがありました。


 まるで棚からぼた餅のような大関昇進でしたがこれで横綱、大関がそろい、福の花や松前山、巨漢の義ノ花の若手たちも幕内に上がってきていました。出羽錦関と大晃関はさすがに引退されましたが、小城ノ花、金乃花、常錦関らベテランが若手の指導を熱心にして出羽海部屋は押しも押されもせぬ存在となったのです。そして次は「北の富士を横綱に」が合言葉になってきたのです。

この時を最後に北の富士御大も名古屋に姿を現してない。元気な姿を見たいのはワシだけではないと思うが、、、


八角理事長が締め込み姿で稽古指導なんて記事もあったな。ワシに言わせれば冗談はヨシコちゃんか、冗談ポパイのほうれん草やで、、ホンマ。



宮城野が、二所ノ関が、締め込みで、なんてのも当たり前の話しで何考えとんのかな?八角にしても親方の指導が悪いから力士が育たん言うて自分とこ全然アカンのやから、、、北勝富士以降出とらんやろ??今どきの親方はゴルフウェアが稽古着と勘違いしとる。ったく!!


今日は熱田神宮奉納横綱土俵入りがあるかな?理事長以下役員、横綱大関が参拝するはずやが、暑いから大変やね。見学行かれる方はくれぐれも気をつけて下さいよ~。


場所の見通し予想は また改めて、、


皆さん暑さに気をつけて今日もエエ日を🛐🛐🛐